上島弥兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/28 13:57 UTC 版)
上島弥兵衛は幕末から明治時代(1820年~1875年)の人物で久居焼の創設者である。滋賀県信楽地域の人物で幼少期から陶器製作を志望して、各所で修業した。嘉永4年の31歳の時に三重県四日市市に来た人物である。しかし阿倉川の土質が悪かったため加太に引っ越して焼き物を開始した。当時飯南郡射和村の庄助は焼き物の失敗が続いて苦境にあり、これを聞いた射和の豪商竹川竹斎は弥兵衛を招いて焼き物作りを依頼した。弥兵衛は加太村の窯を他人にゆずり、射和の棟梁として苦心して焼き物を完成させた。射和万古焼の始まりである。弥兵衛は射和万古焼から新規独立して竹川氏の反対を押し切り津市に出て、藤堂和泉守の命で現在の津公園御山荘山に釜を建設する計画があったが、竹川氏の反対で計画が中止となり、同時に射和万古焼も中止となった。弥兵衛はこの計画の失敗に屈せず、藤堂家の家臣の近藤の保護と倉田久子八の出資で津船頭町で窯を建設した。これが阿漕焼の元祖で万延元年の春であった。その後久居大口山に良い土質があるのを発見し、同年10月久居本町の上住七兵衛と2人で窯を開いた。これが久居焼の始まりである。弥兵衛は両所の窯を管理して、焼き物製作に励み阿漕焼・久居焼の名は次第に高まっていったが、明治元年の上住の死亡のため阿漕焼を倉田久八に託して、後年は久居焼の製作に専念した。明治8年に55歳で没する。
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