万燈祭の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/29 07:46 UTC 版)
碧海郡地域は水の便に恵まれない土地である。夏には刈谷の松秀寺境内にある秋葉社で雨乞いの祭りが行われていた。「御触状留帳」によれば、安永7年(1778年)、この祭礼で笛・太鼓による囃子が初めて取り入れられ、寺横町組によって製作された万燈が登場した。万燈祭の起源には諸説あるが、この安永7年をもって万燈祭の始まりとする説が有力である。安永9年(1780年)には2つの町内から万燈が出され、傘鉾も披露された。これらの出し物によって人々の注目を集めたので、安永10年(1781年)からは万燈や傘鉾が神社の外に出て町内に繰り出すことになり、天明8年(1788年)には一町を除いたすべての町から万燈が出されるようになった。『刈谷町史』には「元和2年(1616年)から御神楽・引馬で賑わう祭りが開催され、天保13年(1842年)の大旱魃の年には行灯を持って踊った。この年から角行灯・囃子台を引き出すのが慣例となり、万燈祭りと称するに至った」という趣旨の記述があるが、これは秋葉社の由来と合わない。一説には、刈谷藩主土井家と仙台藩主伊達家のつながりが強く、伊達家から養子も迎えていることから、仙台七夕祭りや秋田竿灯祭り、青森ねぶた祭りなど、東北地方に多く見られる宵に明かりを燈す様式の祭礼の影響があるのではないかともいわれるが、詳細は不明である。
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