万国公法とは? わかりやすく解説

万国公法

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/19 08:25 UTC 版)

万国公法(ばんこくこうほう)は、19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、東アジア各国に多大な影響を与えた国際法解説書の翻訳名であり、同時に“International Law” の現在の訳語「国際法」以前に使用されていた旧訳語でもある。以下では最初に翻訳命名されたウィリアム・マーティン英語版の『万国公法』とその重訳本[注釈 1]を中心に記述し、この本がもたらした西欧起源の国際法がアジア諸国にどのように受容されていったかについても触れる。


注釈

  1. ^ 原語から一旦他言語に訳されたものを、さらに別の言語に訳した著作。
  2. ^ 東アジアを中心とした国際関係を言い表す朝貢―冊封体制、朝貢システム、互市体制、華夷秩序といったことばで表現されることが多いが、それらについては冊封朝貢など別記事に譲り割愛する。
  3. ^ 「溥天の下、王土に非ざる莫く、率土の浜、王臣に非ざる莫し」(『詩経』小雅・北山)。自国や自民族を世界の中心と考える自民族中心主義は、何も中国にだけある特異な考え方ではない。しかし中国の版図のみならず版図外をも合わせた「天下」全体が天命を承けた中国皇帝の支配を受けるべきであるといった考え方は、中国に特有のものと言ってよい[1]。ただしモンゴル史家杉山正明のように、中国皇帝は天下における唯一絶対の支配者であるという観念を持っていたわけではないとする説もある[2]
  4. ^ たとえばベトナムの阮朝は清朝に朝貢していたが、それ以外の諸国には宗主国として振る舞い、隣国のカンボジアを「藩属国」として扱い、朝貢させていた。
  5. ^ たとえばアイヌや琉球を朝貢国と見なす日本型華夷秩序、朝鮮の小中華、ベトナムの「南の中国」等[3]がある。
  6. ^ Elements of International Law は現在では、日本・中国ともに『国際法原理』の名で知られている。なおホイートンという表記は、研究によりウィートンとするものもあるが、ここでは便宜的にホイートンで統一する。
  7. ^ 中国において国際法を理解しようとした試みは『万国公法』が初めてではない。アヘン戦争当時、林則徐がE.ヴァッテルの『各国律令』(Le droit des Gens)を一部翻訳し、その成果は『海国図志』にも取り入れられている。しかし体系的な紹介という点では、この『万国公法』の翻訳が嚆矢であった。
  8. ^ 総理衙門章京とは、総理衙門において様々な事務を担当する職である。総理衙門は国内の重要案件を扱うため機密性が高く、単なる事務も胥吏に任すわけにはいかなかったため、設けられた。
  9. ^ ただマーティンの国際法紹介を通じて中華思想を払拭するという目標が報われたかといえば、本人自身がそれを否定している。清朝は次第に近代化・西欧化を政策として推進したが、それに伴い反西欧列強の機運が高まった。その頂点が反欧米・反キリスト教を旗印とする義和団の乱1900年)である。乱発生時、何百人もの欧米人・日本人が北京に取り残されたが、マーティンもその中の一人だった。2ヶ月弱の籠城を強いられたマーティンは「われわれの生涯をかけた奉仕が、ほとんど何の価値もなかった[4]」と怒りと落胆が入り交じったことばを吐いている。
  10. ^ 多くの研究は第六版説を支持しているが、第3版(1846年刊)を支持する説もある(劉禾2000)。あるいは初版をとる説もある[5]
  11. ^ 「附会」とは「牽強付会」の「付会」、すなわちこじつけ
  12. ^ 無論、華夷秩序の動揺は『万国公法』や近代国際法のみに原因があるわけではない。砲艦外交による不平等条約の締結、朝貢国の喪失といった突きつけられた現実が与えた影響は無視できない。ただそれのみによって中華思想が動揺したのではなく、思想的側面からの影響も多々あったのである。たとえばある研究者は「万国図(世界地図:加筆者)によって東アジアで信じられてきた宇宙観・世界観を覆して、球体である世界には多種多様な国家が存在することを教え、次いで万国史(世界史:加筆者)によって各々の国家と民族には独自の歴史と政治体制と文化があることを伝え、そして最後に万国法によってそれらの諸国がいかなる権利と義務に基づいた関係を作っていくのかをしめすことによって、華夷観によって構成された東アジア世界秩序を組み替えることが可能となった」と述べている[9]
  13. ^ 坂本龍馬は、いろは丸沈没事件の際に、『万国公法』を出版することで国際法を日本に認知させ世論を味方につけ、大藩である紀州藩との賠償交渉を有利に進めようとした[10]。また紀州藩はこの交渉時、「万国公法により賠償と決まれば五ヶ月内に渡す」という趣旨を書いた書状を後藤象二郎に出している[11]
  14. ^ 日本における翻刻には勝海舟が積極的に関わっていると推測する研究がある[12]
  15. ^ 『万国公法』に限らず幕末・明治初期にあって欧米の文献を漢語訳した書物の流入は、大きな影響を与えた。この点を過小に評価することはできない。たとえば「(西洋書籍は)非洋学先生、則不能得而読也。近今英米二国、務脩漢学、在香港上海等処、所刊漢字著書頗多。亦足知全世界之繁昌矣」(錦渓老人『横浜繁昌記』より。加筆者訳:(西洋の書物は)これまで洋学者でなければ入手して読むことなどかなわなかった。しかし近年イギリス人・アメリカ人たちが香港や上海等で漢文に翻訳した書物が非常に多い。全世界の繁栄ぶりをそれにより十分に知ることができる。)とあるように、西欧文明の情報はまず漢語訳によってもたらされ、それにより近代日本人の世界が開かれていったのである。ちなみに『横浜繁昌記』は漢文で記述されているが、著者は蘭学者・ジャーナリストであった柳川春三で、尾張出身の日本人である。
  16. ^ 近年外来語研究が盛んで、これまで日本で作られたとされたものが中国製と判明したり、あるいはその逆が判明したりしている。そのためある語彙がどこで生まれたかということは流動的であるが、ここのところ日本から中国などに新語を輸出したことばかりが強調される傾向にある。この点につき日本史家原田敬一が「日本で欧米文化を消化し、翻訳語を作り、清国や韓国などの漢字文化圏に輸出していったことだけが語られ過ぎている」という指摘をしている[13]。『万国公法』の法律用語が現在の日本でも息づいていることからも明白なように、文明や文化は「双方向性」的であることは留意する必要がある。
  17. ^ 「権利」について、箕作麟祥は『万国公法』から採用したと述べ、日中両国の新漢語研究者たちの多くもそれを認めている。しかし明治日本の発明とする研究もある[14]
  18. ^ ただし稲田正次『明治憲法成立史』上(有斐閣、1960)のように国際法の意味を含まない、とする研究もある。
  19. ^ 政体書第11条「一 各府各藩各県其政令を施す 御誓文を体すべし。唯其一方の制法を以て他方を概する勿れ。私に爵位を与ふ勿れ。私に通宝を鋳る勿れ。私に外国人を雇ふ勿れ。隣藩或は外国と盟約を立つる勿れ。是小権を以て大権を犯し、政体を紊るべからざる所以なり」(句読と送り仮名追加、及び片仮名の平仮名への変換は加筆者)。
  20. ^ 五榜の掲示 第四札「今般王政御一新に付き、朝廷の御条理を追い、外国御交際の儀仰出され、諸事に朝廷に於いて、直ちに御取扱い成らせられ、万国ノ公法を以て、条約御履行在らせられ候に付ては、全国の人民叡旨を奉戴し、心得違い之無き様仰せ付けられ候」。
  21. ^ 「公法便覧丁韙良漢訳中の偃武三策を進講したてまつる」[18]
  22. ^ たとえばビスマルク岩倉使節団に以下のように語り、若い明治の元勲たちの帰国後の政治姿勢に大きな影響を与えた。「方今世界の各国、みな親睦礼儀を以て相交るとはいへども、是全く、表面の名義にて、其陰私に於ては、強弱相凌き、大小侮るの情形なり、……彼の所謂公法なるものは、平常は列国の権利を保全するの典憲と言うと雖も、大国の利益を争うや、己に利益あれば公法を取て少しも動かず、若し不利益なれば翻すに兵力を以てし、固より常守あること無し[19]。また、福沢諭吉は、「百巻の万国公法は数門の大砲に若〔し〕かず」[20]と述べ、「万国公法」への不信を露わにした。
  23. ^ 范富庶については『大南寔録』に伝があり、それによると広南省出身、1843年科挙に合格して官僚となっている。官歴という点から言えば、対外関係の職がその多くを占めた。他の三名については官僚であること以外詳しいことは不明である。
  24. ^ 近代国際法の世界的な広がりと非西欧諸国における主権国家の相次ぐ誕生の間に強い連関性を認める研究は多い。たとえば張寅性は「行為主体(国家)の近代化と構造(国際体制)の近代化は、相関的であった」と述べている[22]。さらにこの近代国際法に基づく条約体制はイマニュエル・ウォーラーステインが唱える世界システム論の法的側面でもあるが、彼は「近代国家は、完全に自立的な政治体などでは決してなかった。つまり、国家というものは、ひとつのインターステイト・システムの不可欠な一部として発展し、形づくられたものである」と述べている[23]

出典

  1. ^ ジョン・キング・フェアバンク、1968、岩井2005
  2. ^ 「帝国史の脈絡」、山本有三編『帝国の研究』名古屋大学出版会、2003
  3. ^ 茂木1997
  4. ^ 山室2001、p231
  5. ^ 何2001
  6. ^ 住吉1973、張嘉寧1991ほか
  7. ^ 訳文は住吉1973、456頁に依る。
  8. ^ “Natural law”の訳語としての「性法」「自然法」の定着については、柳父章『翻訳の思想』(ちくま学芸文庫、1995、pp74–87)参照。
  9. ^ 山室2001、p230
  10. ^ 平尾道雄『新版龍馬のすべて』高知新聞社、1985、p283
  11. ^ 尾川昌法「坂本龍馬と『万国公法』-「人権」の誕生(5)-」、『人権21 調査と研究』166、2003、p22
  12. ^ 高原2000
  13. ^ 『シリーズ日本近現代史3 日清・日露戦争』岩波新書〔赤〕、2007、iv頁
  14. ^ 鈴木修次『日本漢語と中国―漢字文化圏の近代化―』(中公新書626、1981、pp48–49
  15. ^ 万国公法之上に而論候得は、苟国其独立自主之権を失不申際は称謂之如何に申候とも是に拘り貶礼を用候例には無之、且又彼五大国抔称候は国勢之強弱に本き名号之尊大には不拘義に有之」(『別紙 議題草案』)。
  16. ^ 井上1994
  17. ^ 鹿児島大学デジタルコレクション 『和訳万国公法』
  18. ^ 宮内省臨時帝室編修局編修『明治天皇紀』第七、吉川弘文館、2001、ISBN 4642035273、安岡1999
  19. ^ 久米邦武『米欧回覧実記』第58巻「伯林府之記」上、岩波文庫版第三巻、329頁、明治6(1873)年3月15日、ベルリン着
  20. ^ 『通俗国権論』1878
  21. ^ 『万国公法』第一巻第十節「所謂均勢之法者、乃使強国均平其勢、不恃以相凌、而弱国頼以獲安焉。実為太平之要術也」(加筆者訳:いわゆる均勢の法というのは、列強の間で均衡を保たせて、互いに相手の国力を超えないようにし、結果として列強の狭間にある小国も存立できるようにするものである。実に平和の要となる外交術である)。
  22. ^ 「東アジア国際関係とその近代化」(財団法人日韓文化交流基金HP掲載論文、2005
  23. ^ 川北稔訳『史的システムとしての資本主義』岩波書店、1985、ISBN 4000047779。訳文は川北文を使用






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