ヴラディミレスクの登場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/07 07:27 UTC 版)
「ワラキア蜂起」の記事における「ヴラディミレスクの登場」の解説
1806年に勃発した露土戦争はワラキア、モルダヴィア両公国の地で展開されたが、これにはルーマニア人義勇兵らもロシア側で参加していた。この戦いはロシアの勝利に終わったが、ブカレスト条約 (1812年) (en) でベッサラビアがロシアに譲渡されるなど、ルーマニア義勇兵の奮闘も報われることはなかった。しかし、ルーマニアの人々はロシアがルーマニアを解放してくれるという期待を寄せ続けていた。そしてこの戦いにはのちにワラキア蜂起の指導者となるトゥドール・ヴラディミレスクも参加していた。 ヴラディミレスクは元々民兵(パンドゥル) (en) であったが、1806年の露土戦争に参加した際、第一次セルビア蜂起の指導者であったカラジョルジェ・ペトロヴィチ (en) の仲間であるセルビア人らと接触し、また、オーストリアに滞在した際には後のギリシャ初代大統領となるイオアニス・カポディストリアスらとも親交を結んでいた。 ヴラディミレスクはオーストリアに滞在した際、フィリキ・エテリアの活動を知った。そのため、フィリキ・エテリアの指導者であるアレクサンドル・イプシランティスがヴラディミレスクに接触、ヴラディミレスクはフィリキ・エテリアに協力することになった。そしてフィリキ・エテリアが蜂起した際にはイプシランディスがモルダヴィアに侵入する間に当時、御用調達官であったヴラディミレスクがオルテニアで民兵を率いて蜂起、ブカレストを占領して合流することになっていた。 しかし、ヴラディミレスクの目的はルーマニア人の権利を拡大することにあり、ギリシャの独立を助けることではなかった。また、ギリシャ人であるルーマニアの支配層ファナリオティスらの排除して「ルーマニア人によるルーマニア支配」を要求することにあったため、フィリキ・エテリアの目的や手段とは大きく違いを見せていた。
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