ワイマール時代 1890-1896
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「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「ワイマール時代 1890-1896」の解説
1890年(29歳)、ウィーンの『国民新聞』に演劇評論を連載。秋にワイマールへ転居し、ゲーテ=シラー遺稿保管局にて働くようになる。ワイマール版(ゾフィー版)ゲーテ全集の編纂において、ゲーテの自然科学論文集の出版に携わる。この時期エルンスト・ヘッケルに面会している。 1891年(30歳)、ロストック大学のハインリッヒ・フォン・シュタイン教授に学生資格のない社会人として自費で論文指導 (Externe Promotin) を受けることを許され、『認識論の根本問題 - 特にフィヒテの知識学を考慮して』と題する論文で哲学博士の学位を取得する。ただし、評価は「可」(ausreichend 合格4段階評価の一番下)であった。 1892年(31歳)、5月、その論文に加筆・訂正したものを『真実と学問』 (GA3) として出版。夏にはそれまでのユンケル通り12番から、後にシュタイナーの妻となる寡婦アンナ・オイニケ(1853年-1911年)の住むプレラー通り2番に転居。この時期いくつかの哲学と哲学史に関する著述をする。この中には1893年11月に刊行された『自由の哲学』 (GA4) も含まれる。 1894年(33歳)、教授資格申請論文は評価されず失敗に終る。 1895年(34歳)、5月、『フリードリッヒ・ニーチェ みずからの時代に闘いをいどむ者』 (GA5) を出版。 1896年(35歳)、「ゲーテ=シラー遺稿保管局」を退職。
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