ローリング・ストーンズとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 13:55 UTC 版)
「ブライアン・ジョーンズ」の記事における「ローリング・ストーンズとして」の解説
ストーンズは当初、イギリスの白人聴衆に「本物の」R&Bを聴かせることを目的としており、ブライアンはストーンズを紹介する際には必ず「R&Bバンド」と名乗った。当時のブライアンの様子をミックは「奴はバンドの運営と個性、バンドのあるべき姿に取り憑かれてた。俺には異常にすら見えたよ」と表現している。ちなみにブライアンはミックのボーカリストとしての力量に疑問を持っていたようで、デビュー直前には代わりにポール・ボンド(後にマンフレッド・マンに参加するポール・ジョーンズ)を加入させようと考えていた事もある。 だが、体調不良などでギグに穴を開けたり、彼女とのデートを優先して仕事をすっぽかすなど、およそリーダーとしてふさわしくない行動が目立つようになり、バンドの主導権は間もなくミックとマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダムに移った。ジャガー/リチャーズのコンビがオリジナル曲の製作を始め、オールダムがそれを全面的に推し進めるようになると、作曲能力の乏しいブライアンは次第にバンド内での存在感を失っていく。1964年のアメリカツアーから麻薬がバンド内に入り込むようになると、ブライアンはそれに完全にのめり込んだ。バンドの成功と共にブライアンの焦燥感は募り、以後ますます麻薬に溺れるようになる。 元々マルチプレイヤーだったブライアンは、ギター以外の楽器で存在感を示そうと、1960年代半ばから様々な楽器を導入するようになる。アマチュア時代からプレイしていたハーモニカ、サックスやピアノの他、マリンバ、ダルシマー、シタール等の当時のロック音楽では珍しかった楽器を次々と取り入れ、『アフターマス』から『サタニック・マジェスティーズ』までのサイケデリック期のストーンズのサウンドに編曲面で大きな影響を与え、ブルース一辺倒だったバンドの音楽性の幅を広げることに貢献した。また、ビートルズの「イエロー・サブマリン」や「ユー・ノウ・マイ・ネーム」にゲスト参加するなど、他のアーティストとの今でいうコラボレーションも積極的に行った。 1967年5月、大麻所持の容疑で逮捕される。10月、9ヶ月の禁固刑が言い渡されるが、12月の上告裁判で1000ポンドの罰金と3年間の保護観察処分に減刑され、収監は免れた。同年にはミックとキースも同じく麻薬所持の容疑で起訴されており、第1審では禁固刑を言い渡されたが、上訴審でミックは12ヶ月の条件付で釈放、キースは無罪となっている。1960年代後半にバンドの運転手兼ボディーガードを務めていたトム・キーロックは、この頃のブライアンから自殺を考えていたことを告白されたと振り返っている。 ブライアンも自身の薬物依存を全く省みなかった訳ではなく、逮捕から判決までの間に一度麻薬更生施設に入っている。だが翌1968年5月、大麻所持の現行犯で再び逮捕された。裁判では無実を主張するが、保護観察期間中の逮捕という事もあり厳刑も予想された。9月、罰金刑が下され、またも収監を免れた。ミックはプレスに「ブライアンが刑務所に行かずに済んでうれしいよ」と語ったが、この頃にはすでにバンド内でブライアンを排除しようとする動きが出始めていた。ミックによれば、この頃になるとブライアンはギターを持っていることさえできなくなっていたと言う。脱退直前のブライアンの様子は、ジャン=リュック・ゴダール監督の『ワン・プラス・ワン』での「悪魔を憐れむ歌」のレコーディング風景の中で見られるが、以前のように様々な楽器を自由自在・縦横無尽に生き生きと演奏する姿はもはや見られず、虚ろな顔をしていて、まるで魂の抜け殻のようになっていた。ミックは「マジで100%打ち込んでるブライアンを見たのは、『ノー・エクスペクテーションズ』(1968年のアルバム『ベガーズ・バンケット』収録)が最後だった」と振り返っている。 この年の11月に、ブライアンはサセックス州ハートフィールド近くにあるコッチフォード・ファームを購入した。この家は「クマのプーさん」の作者A・A・ミルンがかつて住んでいた家である。同年12月の「ロックンロール・サーカス」が、ブライアンにとっての最後のステージとなった。
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