ロンドン復興計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/01 08:01 UTC 版)
「パトリック・アバークロンビー」の記事における「ロンドン復興計画」の解説
第二次世界大戦後のロンドン復興計画は有名で、また1945年にエドウィン・ラッチェンス卿の支援で、キングストン・アポン・ハルの市とカウンティーで "A Plan for the City & County of Kingston upon Hull" に携わる。このときに発表した「アバークロンビー計画」は、ハル市にこそ採用されなかったものの、空爆を受けたロンドン市の住宅難に対応するため、ロンドン北東部の開発に活かされた。 ハーロウ、クローリーあるいはM25でロンドン都心と結ばれた郊外型住宅地のひとつハロルド・ヒル (英語版) の町作りが始まる。 次いで1946年にはロバート・マシューズ (英語版) とともにクライドバレー地域計画 (Clyde Valley Regional Plan) に着手。あるいは人口過密の解決のためスコットランド初のニュータウンとしてイースト・キルブライド、 カンバーノールド の誕生に結びつく。やがてリチャード・ニクソンと共同で1949年に ウォリック再開発計画を提案、ビクトリア朝様式の住宅をほぼすべて取り壊し、大規模な環状道路を設けようとした。 国際建築家連合(略称:UIA)が1948年に新設されると、初代会長に就任。同年、コロンボの都市再構成案を作成すると、その後、英国政府の依頼でマルタ、香港、キプロスなど、短期の都市コンサルタントをつとめる。死の直前には、エチオピアに都市計画に関する提案を行い、1956年にアディスアベバの首都計画を作成するよう委託されるものの、翌1957年、死去。なお、UIA はその功績を称え、優れた都市計画に対して贈るパトリック・アバークロンビー卿賞 (Sir Patrick Abercrombie Prize) を設立した。またアバークロンビーが1915年-1935年に暮らしたウィラルの Village Road にある家には、その場所に歴史的な意味があることを示すブルー・プラークが取り付けられた。
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