レジナルドとの死別後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 09:09 UTC 版)
「グロリア・モーガン・ヴァンダービルト」の記事における「レジナルドとの死別後」の解説
1925年、レジナルドが45歳で亡くなると、グロリアは娘とともに莫大な遺産の相続人になった。彼女はそれから6年間、主にパリに住んで、喪に服するどころか、ヨーロッパとアメリカを往復し、社交界で遊び回り、男たちとおおっぴらに交際した。 彼女の行状が、娘グロリア・ローラに悪影響を与え、養育を放棄しているに等しいと、雇っていた私立探偵から報告を受けたヴァンダービルト家は、1934年に「母親の資格はない」とグロリアを訴えた。タブロイド紙はこぞって、このセレブレティの裁判の行方をかき立てた。時代はアメリカ全土が不況にあえいでおり、国民は映画を見るように、金持ちたちの愛憎劇を楽しんだのだった。 ヴァンダービルト家は(その先鋒はレジナルドの姉ガートルードであった)、グロリアがミルフォード・ヘイヴン侯爵夫人ナーダと同性愛の関係にある、ドイツの貴族が金目当てに彼女と関係を持った、など様々な証拠を突きつけた。 世論はグロリア母子に好意的だった。どんなだらしない母親でも、伯母よりは愛情があるに違いないと、彼女を支持した。大金持ちのヴァンダービルト家への反発もあった。公判のたびに野次馬が大勢集まり、事態の重大さを知らない娘グロリア・ローラに同情の声が集まった。裁判の進展もグロリアに有利に思われたが、判決は意外にも、伯母ガートルードに養育権があるとした。グロリア・ローラの遺産管理からも除名された。許されたのは、週に1度会うことだけだった。 グロリアは、母親であるより女であることを優先した。裁判の間中、娘を自分の実母に預けっぱなしで、たまにしか顔を見に来なかった。週に1度、グロリア・ローラと対面しても、「映画を見ていらっしゃい。」と小遣いを与えるのだった。彼女は男たちと恋愛を重ね、ヨーロッパとアメリカを往復する暮らしを改めようとはしなかった。その往復の回数は120回、時間にすると2年間にも及んだという。だが1946年、娘のグロリア・ローラが奔放で浪費家の母親に高額な生活費を支払うくらいなら、慈善事業に寄付金したほうが良いということで彼女への金銭援助を全て取り止めた。 晩年、彼女は姉のテルマとニューヨークやロサンゼルスに暮らした。1958年には姉妹連名で「ダブルエクスポージャー」という回顧録も発表した。1965年に彼女が亡くなったとき、葬儀にはメアリー・ピックフォードやバディ・ロジャースが参列した。彼女はカリフォルニア州カルヴァー・シティーのホーリー・クロス墓地に葬られた。
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