ルーベン・ヴァン・オーナムとプロビデンスの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 01:44 UTC 版)
「ベア川の虐殺」の記事における「ルーベン・ヴァン・オーナムとプロビデンスの戦い」の解説
1860年9月9日、イライジャ・オッターがオレゴン道で1群の移民を引率しているときに、バンノック族とボイシ・ショーショーニー族と見られる一団に攻撃された。これらのインディアンをなだめようと努めたにも拘わらず、攻撃が続き移民隊のほとんど全員が殺され、家畜が追い散らされた。アレクシス・ヴァン・オーナム、その家族および他の約10人は命からがらにすべて放り出して逃げ出し、近くの下藪に隠れたが、虐殺されてしまった。後に彼等はF・T・デント大尉の率いるアメリカ軍1個中隊に発見された。この中隊の士官の一人、マーカス・リノ中尉がヴァン・オーナム家の6人の切り刻まれた遺体に出くわした。ヴァン・オーナム家の子供達のうち4人は明らかに攻撃してきた戦士達に捕虜として連れて行かれていた。 この事件の直接の結果として、現在のアイダホ州ボイシができた場所近くに軍隊の砦が築かれ、そこでジョージ・ライト大佐は5個中隊を維持できる軍事基地を造るために連邦政府に15万ドルを要請した。 アレクシス・ヴァン・オーナムの兄弟であるザキアスはオレゴン道に行ってきたばかりのある親戚から、ザキアスの甥と同じ年頃の小さな白人少年が北部ショーショーニー族の集団に連れて行かれ、キャッシュ・バレーに居るらしいという話を聞いた。ザキアスはそれが甥のルーベン・ヴァン・オーナムだろうと考え、友人の小集団を集め、準州政府から何らかの援助を得るためにソルトレイクシティに行った。ソルトレイクシティに着くと、ダグラス砦にコナー大佐を訪ね、その甥を取り戻すための援助を請うた。コナー大佐は援助することに同意し、エドワード・マクギャリー少佐の指揮する騎兵分遣隊をキャッシュ・バレーに派遣し、プロビデンスの町近くでヴァン・オーナムと落ち合うように手配した。 ヴァン・オーナムはベアハンター酋長のいるショーショーニー族戦士の小集団が居る場所を突き止めてから、間もなくマクギャリーの部隊と合流し、ショーショーニー族が近くのプロビデンス渓谷に後退するのを追った。マクギャリーは、「インディアンを見付け次第、誰でも殺せ」という命令を出していた。ショーショーニー族が渓谷の中で防御的陣地を構築した後で、ショーショーニー族とアメリカ軍の小競り合いが約2時間続いた。その後、ベアハンター酋長は丘に登り白旗を振って降伏の合図を送った。 ベアハンター酋長は白旗を掲げたが、アメリカ軍は降伏も和平の調停も認めず、酋長と約20名の戦士達は捕虜にして、プロビデンス近くのアメリカ軍宿営地に連行した。ベアハンター酋長は白人の少年の所在を尋ねられたとき、その少年は数日前に遠くへ送られたと言った。マクギャリーはベアハンターに対し、部族員数名を派遣してその白人少年と共に戻ってこさせ、その間ベアハンターは4人の戦士と共に人質にすると言い渡した。翌日の正午までにショーショーニー族は小さな少年を連れて戻ったが、その少年はルーベン・ヴァン・オーナムの容姿書きに合致していた。ザキアスはその少年を保護し、長い間行方が分からなくなっていた甥だと宣言して、少年をオレゴンの自分の家に連れ帰った。 ショーショーニー族はこの行動に抗議し、その少年はフランス人毛皮罠猟師で、別のショーショーニー族酋長であるワシャキーの姉妹の息子だと主張した。アメリカ軍はヴァン・オーナムと少年のことは放っておき、勝利を宣言して、コナー大佐には「人命も馬も些かも失われることなく少年を救出した」と報告した。ベアハンター酋長はその後、キャッシュ・バレーの入植者達に苦情を言い、入植者達はアメリカ軍に対して、自分達をもっと早く助けるべきだったと抗議した。ベアハンター酋長とその部族の戦士達と、約70名のキャッシュ・バレー民兵隊との間に紛争が起こった後で、入植者達はその状況を解決するために「最良で最も安価な政策」として、2頭の牛と幾らかの小麦粉を提供した。
※この「ルーベン・ヴァン・オーナムとプロビデンスの戦い」の解説は、「ベア川の虐殺」の解説の一部です。
「ルーベン・ヴァン・オーナムとプロビデンスの戦い」を含む「ベア川の虐殺」の記事については、「ベア川の虐殺」の概要を参照ください。
- ルーベン・ヴァン・オーナムとプロビデンスの戦いのページへのリンク