ラグビー王国の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 22:35 UTC 版)
「ラグビーニュージーランド代表」の記事における「ラグビー王国の誕生」の解説
ニュージーランドへのラグビー伝来は医学者で政治家のデビッド・モンロ(出身はスコットランド・エジンバラ)の息子であるC.J.モンロにより伝えられた説が有力である。C.J.モンロは留学先のロンドンでラグビーと出会い1860年代後半にニュージーランドへ伝えたとされている。1870年5月にネルソン・カレッジとネルソン・クラブとの間でラグビーの試合が開催された 。1882年にサザンラグビー協会(現:ニューサウスウェールズ州ラグビー協会)がニュージーランド遠征を行い、1888年にブリテン諸島チーム(イングランド、スコットランドおよびウェールズの選手から構成)がニュージーランド遠征を行った。 1892年にニュージーランド・ラグビーフットボール協会(NZRFU、現在のニュージーランド・ラグビー協会(NZRU))が設立され、1893年にニューサウスウェールズ州へ遠征。翌年にはニューサウスウェールズを招き初のホーム試合を開催。公式な初のテストマッチは1903年にシドニーで開催されたラグビーオーストラリア代表(ワラビーズ)との試合になる。 1905年から1906年にかけ初の北半球遠征(ブリテン諸島、フランス、アメリカ合衆国)を行った際にオールブラックスと呼ばれるようになったとされる(詳細は#ニックネームを参照)。この北半球遠征に帯同したメンバー27名は“オリジナル・オールブラックス”と呼ばれ、伝説のチームとされている。この遠征成績は35戦34勝1敗、うちテストマッチ5戦4勝1敗。 1921年にラグビー南アフリカ代表(スプリングボクス)がニュージーランド遠征を行い、1928年にはオールブラックスが南アフリカへ遠征。この遠征試合はともに引き分けとなった。 1924年から1925年にかけて行われたブリテン諸島・フランス・カナダ遠征では32戦全勝(うちテストマッチ4戦全勝)を達成。この遠征メンバーは“インヴィンシブル(無敵艦隊)”と称された。 1932年よりワラビーズとの国際対抗戦「ブレディスローカップ」を開催。 1965年から1969年にかけてテストマッチ17連勝を達成。 1976年に当時人種隔離政策(アパルトヘイト)により国際社会から強い批判を受けていた南アフリカへオールブラックスを派遣したことからアフリカ諸国がモントリオールオリンピックをボイコットするなど国際問題へ発展。 1978年の北半球遠征ではホーム・ネイションズの4チームと対戦し全勝、グランドスラムを達成。 初開催となるラグビーワールドカップ1987で優勝。ジョン・カーワンとクレイグ・グリーンが6トライを挙げトライ王に輝く。ラグビーワールドカップ1991では準決勝でワラビーズに敗れ3位に終わる。 ラグビーワールドカップ1995では優勝候補から外れ、ヘッドコーチのローリー・メインズはベテランのグレアム・バショップ、ジンザン・ブルックを復帰させる一方、新戦力のジョナ・ロムー、アンドリュー・マーティンズ、ジョシュ・クロンフェルドらを起用し新旧融合チームを結成。下馬評を覆し決勝へ進出。決勝はスプリングボクスと大会初となる延長戦に突入するも3点差で2位に終わる。メインズは辞任し、ヘッドコーチにノンキャップの知将ジョン・ハートが就任。 ハート就任後は1996年から始まったトライネイションズで2年連続全勝優勝するなど若手とベテランが噛み合ったラグビーワールドカップ1995での好調を維持する。
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