ポール・フェーサ
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「デュケインのスパイ網」の記事における「ポール・フェーサ」の解説
ポール・フェーサ(Paul Fehse)は1934年に渡米し、1938年に市民権を取得した。彼は渡米以降、ニューヨーク港を拠点に船舶付の調理師として働いていた。 フェーサはスパイ網における幹部の1人であった。彼は会議の招集やメンバーに対する活動の指示、収集された情報の関連付け、そしてセボルドに対するドイツ本国への情報送信の指示などを行っていた。彼はハンブルクでスパイとしての訓練を受けたエージェントでもあり、本人が主張するところによれば在米ドイツ諜報組織における海事部の長であったという。 自らの逮捕が間近に迫っていると感じていたフェーサはアメリカを脱出する計画を立てていた。彼は1941年3月29日にニュージャージーを出港してリスボンへ向かう予定になっていた輸送船シボニー号へ乗り込み、リスボン経由でドイツ本国へ帰国しようと考えていた。しかし、シボニー号がアメリカを出発する前にFBIのエージェントがフェーサを逮捕したのである。 逮捕された後、彼は自らが英国の船舶航行状況に関する情報を収集しており、これらをイタリア経由で本国へ送っていた旨を認めた。 1941年4月1日、フェーサは外国代理人登録法違反に関する有罪答弁を行い、1年と1日の懲役が言い渡された。その後、スパイ法違反について有罪を認め、懲役15年が言い渡された。
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