ホーイその生涯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 06:57 UTC 版)
「ウィリアム・エドウィン・ホーイ」の記事における「ホーイその生涯」の解説
ウイリアム・E・ホーイは1858年、アメリカのペンシルヴァニアに生まれ、青年期に当時のアメリカに燃え上がっていたキリスト教の海外宣教の奔流のような運動に加わってアジアに向かい、1885年たまたま横浜に寄港して、そこで日本、それも仙台を自らの 宣教の使命の地と確信したのであった。その翌年から彼は仙台において押川、数年後に来仙したシュネーダーと共に、東北最初のキリスト教学校の運営に尽くした。ホーイの東北学院への思いは強く、熱く、時に押川の方針と対立することもあったが、学院のその後の歴史は、彼を抜きにしてはありえなかった。盗難にあった学校の大金のために、持ち金も給与もはたいて、ほとんど独力で弁済した。喘息を持病としていたホーイ、病状の悪化によって、東北学院の働きに一区切りをつけ、転地療養もかねて中国に渡る。体調を回復したホーイは上海などで宣教し、成功を収める。1926 年病気が再発してついに帰国を決意、横浜に寄港した後、アメリカに帰ろうとしたがかなわず、船中で没した。69才、人生の大半、身も心も外国伝道に捧げた生涯であった。ホーイ夫人とその娘も第二次大戦後まで中国伝道に献身した。米・日・中そして天の四つの国の市民にふさわしい生涯であった。1927年(昭和2年)ホーイが船の上で死去したとの悲報が届いた時、D・B・シュネーダーはかつての同労者ホーイを「キリスト教の歴史上、最も偉大な宣教師のひとり」と呼んだ。
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