ブルンジ亡命とは? わかりやすく解説

ブルンジ亡命

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/23 03:56 UTC 版)

スコラスティック・ムカソンガ」の記事における「ブルンジ亡命」の解説

1972年北部フツ軍人政治家からの圧力強まりフツ族内部対立生じた隣国ブルンジでもフツ族ツチ族対立激化し同年少数派ツチによる支配に不満を抱いていたフツ反乱起こり軍隊によって弾圧されフツ族10万人が殺害された。カイバンダ政権ツチ族への脅威煽ることで内部衝突回避しようとし、1973年2月高等教育機関官庁からツチ族排除した。だが、こうした混乱のなかで1973年7月5日同じくフツ系のジュベナール・ハビャリマナがカイバンダ政権クーデター倒し(ルワンダ・クーデター(英語版))、新政権発足したこの年中等教育修了したムカソンガは、すでに教員をしていた兄アンドレとともにブルンジへ行くよう父に命じられた。まるで大洪水が起こる前に、種を絶やさないようにと、男性1人女性1人を「ノアの方舟」に乗せるようなものであったとムカソンガは述懐する。ムカソンガとアンドレ深夜篠突く雨のなか何時間も歩き続けブジュンブラ2019年1月16日ギテガ遷都されるまでブルンジ首都)に着いた。 彼女を何としても学校入れようとした父には、さらに生き延びるためにフランス語習得し、ディプローム(資格学位)を取得するようにと繰り返し言われていた。ムカソンガはギテガ社会福祉士養成学校入学し1975年国家資格取得した社会福祉仕事選んだ理由について、彼女は、「もし学校へ行かなかったら農業以外に仕事はなかった、… だから就学できずに農業をしている女性たちのために何かしたかった、… そのために女性就ける仕事は、当時社会福祉しかなかった、… 私が勉強をしたのは彼女たちのためだった」と説明している。

※この「ブルンジ亡命」の解説は、「スコラスティック・ムカソンガ」の解説の一部です。
「ブルンジ亡命」を含む「スコラスティック・ムカソンガ」の記事については、「スコラスティック・ムカソンガ」の概要を参照ください。

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