バンドの端緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:18 UTC 版)
アンナと姉は、この頃、セント・ルイスやイースト・セント・ルイスのナイトクラブに頻繁に出入りし始めた。クラブ・マンハッタンというイースト・セント・ルイスにあるナイトクラブで、アンナは初めてアイク・ターナーと彼のバンドである「キングズ・オヴ・リズム」が演奏するところに遭遇した。アンナはバンドの音楽とアイクの才能に好感を持った。そしてその時のことについて「バンドリーダーの音楽に私は恍惚としたわ」と言っている。アンナは、女性達が自発的に参加している様子を見て、アイクのバンドと一緒にステージに立って歌いたいという衝動を覚えた。1958年のある夜、キングズ・オヴ・リズムのドラマー、ジーン・ワシントンがマイクロフォンを自分のドラム・セットから取り出してアンナとアイリーンのテーブルに置いた。アイリーンはマイクを拒んだが、アンナはマイクを取り上げて、バンドの残りのメンバーが休憩している間に歌い始めた。アイクは彼女の声に唖然とさせられ、結局その夜はバンドと一緒に最後まで歌わせることにした。そしてその後、正式にバンドの一員として迎え入れたのだった。この時期、アイクはアンナに声のコントロールと舞台上での振る舞い方とについて、要点を教え込んでいたのである。アンナの最初のスタジオでの録音は、1958年に行われた。「リトル・アン」という名でアイク・ターナーの曲「ボックス・トップ」にバックコーラスとして参加したのが最初である。他に歌手のカールソン・オリヴァーが参加していた。 1960年にはアイクが「ア・フール・イン・ラヴ」を書き上げた。もともとキングズ・オヴ・リズムのリード・ヴォーカルだったアート・ラシターのために書いた曲だったのだが、ラシターがこの曲のレコーディングの際に姿を現さなかった時に、後日彼女の歌声を消してラシターの声を録音し直すという意図のもと、アイクがアンナに「にせの歌声」として歌って欲しいと頼んだのである。デモ・テープを聴いて、アンナの声を「甲高くて」「金切り声」だと感じた人もいたが、この曲はセント・ルイスでその内容に相応しい扱いを受け、ラジオの電波に乗ったのである。セント・ルイスのDJ、デイヴ・ディクソンは、アイクを説得してこのテープをR&Bのレーベルであるスー・レコーズの社長、ジャギィ・マレイのところへ送らせた。曲を聴いてマレイはアンナの声を気に入った。「汚い叫び声だったが…ファンキーな音だった」と後に述べている。マレイはこの曲を買い取ることにし、録音権と出版権を得る代わりにアイクに2万5千ドルの前金を支払った。マレイはまた、アンナを「ショーの目玉」にすべきだとアイクを説得した。アイク・ターナーがアンナ・メイ・ブロックのことを「ティナ」と名付けたのは、この時である。というのも、ティナという名前が、アイクが一番好きだったテレビの登場人物の名である「シーナ」と韻を踏んでいるからだった。ティナ・ターナーと名付けた理由については、アンナが逃げ出さないようにするため、また彼女だけが有名になるのを防ぐためだとも言われてきた。アイクは、もしアンナがバンドを辞めた場合には、別の歌手を連れてきてティナとして歌わせればよいと考えていたのである。アイクは、ティナと名付けたもう一つの理由として、アンナの恋人達のうちの一人が彼女を取り戻しにくるのをやめさせるためだったと後にしぶしぶ認めている。
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