ナポレオン時代と両シチリア王国の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 07:15 UTC 版)
「シチリア・ブルボン朝」の記事における「ナポレオン時代と両シチリア王国の成立」の解説
「両シチリア王国」も参照 1789年にフランス革命が勃発する。通常、フランス革命をもって国民国家の誕生と言われているが、イタリアにもその思想が入り、統一への気運が高まる。1796年にナポレオン・ボナパルトがイタリアに侵攻すると、フェルディナンドは徹底抗戦の構えを見せるが、逆にフランス軍のナポリ侵入を招いてしまい、家族と共々シチリアへの逃亡を余儀なくされた。王を失ったナポリでは、1799年にパルテノペア共和国の成立が宣言される。フェルディナンドは王党派とホレーショ・ネルソン提督の支援でナポリの奪還に成功するものの、フランス皇帝となったナポレオンによって1806年に再びナポリを追われ、イギリス海軍の庇護の許でシチリアに逼塞することになる。 ナポレオンは最初に兄ジョゼフを、次いで義弟ジョアシャン・ミュラをナポリ王位に就けた(ジョアッキーノ1世)。ナポレオンがロシア遠征に失敗して失脚すると、ウィーン会議によりボルボーネ家はナポリを奪回することに成功する。ミュラはナポリ奪回の動きを示すも、失敗して処刑されるが、その支持者はナポリに広く残存した。 1816年にナポリとシチリアは完全に統合されて両シチリア王国が成立し、フェルディナンドは両シチリア王フェルディナンド1世を称するが、これはナポリによるシチリア支配以外の何物でもなかった。シチリアの民衆の鬱積は溜まり、最終的にはボルボーネ朝滅亡への道を開くのである。
※この「ナポレオン時代と両シチリア王国の成立」の解説は、「シチリア・ブルボン朝」の解説の一部です。
「ナポレオン時代と両シチリア王国の成立」を含む「シチリア・ブルボン朝」の記事については、「シチリア・ブルボン朝」の概要を参照ください。
- ナポレオン時代と両シチリア王国の成立のページへのリンク