ドラフト会議を巡る経緯
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2011年のドラフト会議では伯父の原辰徳が監督を務める読売ジャイアンツと北海道日本ハムファイターズが1位指名し、抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得した。しかし11月21日に日本ハム入団を拒否する意向を表明し、浪人することを選択した。入団拒否の理由としては「日本ハムさんからいろいろなお話を聞いて光栄に思いました。しかし、それ以上に、自分が小さいころからの夢、そういうものがそれ以上に強かったということです」とコメントした。日本ハムも3月31日に菅野の獲得断念を発表した。 その後、東海大の卒業延期制度を利用し大学に残り、大学の練習施設を使用して自主練習をしながら翌年以降のドラフト指名を待つことになった。浪人中は大学野球の規定により対外試合に出場できなかったため、東海大野球部を練習拠点とし、投げ込みやチームメイト相手の紅白戦やシート打撃に登板して実戦感覚から遠ざかることを防いだ。ただし、紅白戦やシート打撃での登板は、緊張感や重圧という点では実戦とは異なるため、ブランクが懸念された。菅野自身は、大学野球だけでなく、高校野球や日本プロ野球、メジャーリーグなどを積極的に観戦をし、野球選手としてプラスになったと語っている。2012年の1月末から1か月半の間アリゾナ州で過ごし、MLBプレイヤーをはじめ様々な競技のアスリートが集まる施設で陳偉殷に王建民を紹介してもらったりアドバイスを受けたりした。 2012年のドラフト会議では、巨人から単独1位指名を受けた。ドラフト会議後には伯父であり巨人の監督である原辰徳が東海大を訪れ、背番号「19」とネームの入った巨人のユニフォームに袖を通した。11月21日に契約金1億円プラス出来高5000万円、年俸1500万円で仮契約を締結(金額は推定)。23日に開催されたファン感謝デーで入団発表された。
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