チンギス・カン以前のキヤト氏
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「ボルジギン氏」の記事における「チンギス・カン以前のキヤト氏」の解説
モンゴルの系譜においてカイドゥの曾孫に位置付けられるカブルのとき、ボルジギン氏は全モンゴル部を統一することに成功した。『元朝秘史』によれば、カブル・カンは「すべてのモンゴル人を統べた」といい、モンゴルの歴史上初めてモンゴル部族を統一する王(カン)に即位したとされる。カブル・カンは金朝に入朝し、その酒宴の席で食欲旺盛さをみせたり、酔って皇帝の髭に手を伸ばしたりと無礼をはたらき、金朝の兵に追われることとなったが、カブル・カンはその追ってきた使者を皆殺しにした。 この頃には、モンゴル部族の居住地はオノン川流域からアルグン川流域にかけてのモンゴル高原北東部に広がっていた。中国側の記録によれば、1140年代にカブル・カンと思われる人物(熬羅孛極烈)の率いる朦骨(モンゴル)国が金朝に侵攻し、これを防ぐことのできなかった金朝がやむなく和議を結んだことが記されている。金朝は西平河以北の27城を割譲し、毎年牛・羊・米・荳を与えることを約し、更にカブル・カンを「朦骨(モンゴル)国主」として冊封した。この時に熬羅孛極烈は「祖元皇帝」を自称し、天興と改元したとされる。 カブル・カンの死後、カン位はカブル・カンの又従兄弟にあたるアンバガイに受け継がれた。この2人のカンの後、西方のオノン川上流に遊牧するカブル・カンの子孫がキヤト(単数形キヤン)氏、東方のオノン川下流に遊牧するアンバガイの子孫がタイチウト氏と呼ばれる同族集団を形成し、モンゴル部の中心氏族であるボルジギン氏系の東西の二大集団となった。しかし、先代カブル・カンの起こした不祥事がもとでアンバガイ・カンはタタル部族に捕らえられて金に引き渡され、木馬に生きながら手足を釘で打ち付けられ、全身の皮を剥がされるという凄惨な方法で処刑されてしまう。後を継いだカブル・カンの子のクトラ・カンとその一族はタタルと金を深く恨み、アンバガイ・カンの子のカダアン・タイシと協力してタタルと金に対する復讐戦を繰り返した。この抗争の中で台頭したのがクトラ・カンの兄のバルタン・バアトルの三男のイェスゲイで、彼の長男がチンギス・カン(テムジン)である。イェスゲイは1155年にタタル族長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカを殺害し功績を挙げた。 イェスゲイはその後のモンゴル部族をまとめ上げ、キヤト氏族の首長となるが、以前の戦いでタタル族の怨みを買ったため、コンギラトのボスクル氏族に息子のテムジンを送りに行った帰りに毒殺された。イェスゲイの死後、キヤト氏族の指導力が弱まり、タイチウト氏族にその座を奪われ、キヤト氏族の大部分はその傘下となり、テムジンの一家とわずかな供回りだけが取り残された。 テムジンは父の死後衰退した勢力を回復させ、同族のタイチウトを滅ぼしたのみならずタタル、ケレイト、メルキト、ナイマンなどの諸勢力を次々に滅ぼして全モンゴル高原の遊牧諸部族を統一し、チンギス・カンに即位した。彼の出たキヤト・ボルジギン氏はモンゴル帝国のカアン(ハーン、皇帝)家となった。
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