チンギス・カン以前のキヤト氏とは? わかりやすく解説

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チンギス・カン以前のキヤト氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 16:56 UTC 版)

ボルジギン氏」の記事における「チンギス・カン以前のキヤト氏」の解説

モンゴル系譜においてカイドゥ曾孫位置付けられるカブルのとき、ボルジギン氏は全モンゴル部統一することに成功した。『元朝秘史によればカブル・カンは「すべてのモンゴル人統べた」といい、モンゴルの歴史初めモンゴル部族を統一する王(カン)に即位したとされるカブル・カン金朝入朝し、その酒宴の席で食欲旺盛さをみせたり酔って皇帝の髭に手を伸ばしたりと無礼はたらき金朝の兵に追われることとなったが、カブル・カンはその追ってきた使者皆殺しにした。 この頃には、モンゴル部族の居住地オノン川流域からアルグン川流域にかけてのモンゴル高原北東部広がっていた。中国側記録によれば1140年代カブル・カン思われる人物(熬羅孛烈)の率いる朦骨(モンゴル)国が金朝侵攻し、これを防ぐことのできなかった金朝やむなく和議結んだことが記されている。金朝西平以北27城を割譲し毎年牛・羊・米・荳を与えることを約し、更にカブル・カンを「朦骨(モンゴル国主」として冊封した。この時に熬羅孛烈は「祖元皇帝」を自称し天興改元したとされるカブル・カン死後カン位はカブル・カン又従兄弟にあたるアンバガイに受け継がれた。この2人カンの後、西方オノン川上流遊牧するカブル・カンの子孫がキヤト単数形キヤン)氏、東方オノン川下流遊牧するアンバガイの子孫がタイチウト氏呼ばれる同族集団形成しモンゴル部中心氏族であるボルジギン氏系の東西の二大集団となった。しかし、先代カブル・カン起こした不祥事がもとでアンバガイ・カンタタル部族に捕らえられて金に引き渡され木馬生きながら手足を釘で打ち付けられ全身の皮を剥がされるという凄惨な方法処刑されてしまう。後を継いだカブル・カンの子クトラ・カンとその一族タタルと金深く恨みアンバガイ・カンの子のカダアン・タイシと協力してタタルと金対す復讐戦を繰り返した。この抗争の中で台頭したのがクトラ・カンの兄のバルタン・バアトル三男イェスゲイで、彼の長男チンギス・カンテムジン)である。イェスゲイ1155年タタル族長であるテムジン・ウゲとコリ・ブカを殺害し功績挙げたイェスゲイその後モンゴル部族をまとめ上げキヤト氏族首長となるが、以前戦いでタタル族怨み買ったため、コンギラトのボスクル氏族息子テムジン送り行った帰り毒殺された。イェスゲイ死後キヤト氏族指導力弱まりタイチウト氏族にその座を奪われキヤト氏族大部分はその傘下となり、テムジン一家わずかな供回りだけが取り残された。 テムジン父の死後衰退した勢力回復させ、同族タイチウト滅ぼしたのみならずタタルケレイトメルキトナイマンなどの諸勢力次々滅ぼしてモンゴル高原遊牧諸部族統一しチンギス・カン即位した彼の出たキヤト・ボルジギン氏はモンゴル帝国カアンハーン皇帝)家となった

※この「チンギス・カン以前のキヤト氏」の解説は、「ボルジギン氏」の解説の一部です。
「チンギス・カン以前のキヤト氏」を含む「ボルジギン氏」の記事については、「ボルジギン氏」の概要を参照ください。

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