チャクリー王朝
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チャクリー王朝(チャクリーおうちょう)は、1782年(タイ仏暦2325年)、ラーマ1世によって興されたタイの現・王朝。首都がバンコクにあるためバンコク王朝、あるいは、王宮が運河とチャオプラヤー川に囲まれたラッタナーコーシン島にあることからラッタナーコーシン王朝(ラタナコーシン王朝とも表記される)という別名がある。2023年現在まで続く王朝で、現在のラーマ10世を含めて、10代の歴代王が名を連ねる。チャクリーとは、ラーマ1世の高貴な称号である。
- 1 チャクリー王朝とは
- 2 チャクリー王朝の概要
チャクリー王朝
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詳細は「チャクリー王朝」および「ラッタナーコーシン王国 (1782–1932)(英語版)」を参照 チャオプラヤー・チャクリーはラーマ1世(在位1782-1809年)として王を継ぎ、後にプラプッタヨートファーチュラーロークと呼ばれるチャクリー王朝(ラッタナーコーシン王朝)の初代王となった。ラーマ1世は、右岸のトンブリーからチャオプラヤー川を渡った左岸に新しい首都バンコク(クルンテープ)を建設し、現在に続くチャクリー王朝が始まった。王宮および王宮内寺院のワット・プラケーオ(エメラルド寺院)が建造されると、ラーマ1世がかつてのヴィエンチャン攻略により持ち帰り、ワット・アルンに安置していたエメラルド仏を移して祀った。新都名にあるラッタナーコーシンとは「インドラ神の宝石」の意で、エメラルド仏のことを指す。 長くビルマの勢力下にあったラーンナーが1804年にビルマ軍を一掃したことで、チャクリー王朝の支配域に置かれるなど、この時代にトンブリー王朝よりさらに勢力は拡大した。ラーマ2世(在位1809-1824年)の時代になると、1821年にタイがナコーンシータンマラート王国(英語版)によりケダ・スルタン国(英語版)を征服し、統治を開始した。当時、ペナン島を1786年以来占領により領有していたイギリスは、貿易の混乱を恐れ、使節をバンコクに派遣して外交交渉を行ったがほとんど成功せずに終った。 19世紀、タイのラーマ1世以降の支配者がアジア地域におけるヨーロッパ列強の力を認識したのは、隣国のコンバウン王朝が1824年からの第一次英緬戦争(英語版)によりイギリスに敗北し、一部領土を失うなど、ヨーロッパ諸国の脅威に晒されたことによる。ラーマ3世(在位1824-1851年)は、1826年、イギリスと通商条約(バーネイ条約(英語版))を締結し、1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わした。 この時代、ベトナムで1802年に成立した阮朝が強勢になり、タイとベトナムとのカンボジアの覇権を巡る争いが大きくなった。タイがカンボジアの支配を狙って起こした泰越戦争(1831-1834年)(英語版)において、1832年にタイはカンボジアに侵攻したが、ベトナム(阮朝)とともにカンボジアが反撃に転じると、タイは撤退し、1834年にはベトナムがカンボジアを掌握した。その後、タイが再びカンボジアの支配のために起こした泰越戦争(1841-1845年)(英語版)の結果、1845年、タイとベトナム両国でカンボジアを共有する講和条約が締結された。この結果、1847年にアン・ドゥオンがカンボジア王に即位したが、ひそかにカンボジア領内の一定の支配権を得るため、シンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請しようとした。しかし、それは事前にタイに情報が漏れたことで失敗に終わった。
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