チェコ領域におけるモラヴィア人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 02:51 UTC 版)
「モラヴィア人」の記事における「チェコ領域におけるモラヴィア人」の解説
ボヘミア公ブレティスラウス一世は、王室の次男以下の息子たちを抑えるため徹底的にモラヴィアを改革することを決定し、後継者問題(5人の息子)を解決する。モラヴィアはまだ一国の一つと考えられていたが、客観的な見方ではモラヴィアは弱体化しており、ボヘミアほど迅速に中世「国家」の形成すらできなかった。チェコ人からモラヴィア人の自立分化につながる道は12世紀後半から13世紀初頭の政治的、経済的変化により引き起こされる。チェコの歴史的伝統は中世モラビアで発展する、例えば、チェコの年代記は再び読みなおされる。 モラヴィア民族は1991年の国勢調査で初めて表記される。ビロード革命後、モラヴィア・スレスコ領域(チェコ語でzemě Moravskoslezská、1928年から1949年にかけてチェコスロバキアに4つあった領域の1つである)回復を目指す有力な政治運動がモラヴィアにおいて活性化した。それゆえに、これまで公式的見解だった統一的チェコ人は、ボヘミア、モラヴィア、チェコ領スレスコ(チェコ領域)に沿ってチェコ共和国の歴史的区分を分けた。モラヴィアでチェコ語を話す住民の一部やチェコ・スレスコでチェコ語を話す住民の一部はモラヴィア人やシレジア人をそれぞれ宣言した。 1991年にチェコ共和国の136万3000千人の市民がモラヴィア人と申告している。しかし、その数は2001年の国勢調査では38万474人に下がった。以前に自らをモラヴィア人として申告した多くの人々は2001年の国勢調査では再びチェコ人として申告した。だが、2011年には数が52万2474千人に再び増加している。モラヴィア愛国心意識が最も強いのはモラヴィアの旧首都ブルノ周辺である。 1989年のビロード革命後の最初の数年間だけで少数のモラヴィア政党は選挙である程度の成功を遂げることができるとみられていた。しかし、1993年、チェコスロバキアが平和的にチェコ共和国とスロバキア共和国に分かれたチェコスロバキア分離期に彼らの多くは勢いを失った。 2011年の国勢調査によると、宗教のない人の割合はモラヴィアのズリーン州で最も低く、ボヘミアの一部、モラヴィアの一部ヴィソチナ州、南モラヴィア州、モラヴィア・スレスコ州、そして、主にモラヴィアのオロモウツ州が続いている。
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