ゼタ・アルバニアを巡ってとは? わかりやすく解説

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ゼタ・アルバニアを巡って

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/02 00:33 UTC 版)

ステファン・ネマニッチ」の記事における「ゼタ・アルバニアを巡って」の解説

ヴカンはセルビア王位断念した後もゼタ王位留まり続けるが1208年退位し、翌1209年ごろに没した考えられている。 ヴカンの死後ゼタ王位継いだ子のジョルジェはネマニッチから独立勝ち取るため、1208年ごろにヴェネツィア共和国に対して臣従を誓う。第4回十字軍の後、ヴェネツィアダルマチア地方勢力下に置こうし、またラグーザ従属させることに成功していた。 ジョルジェはヴェネツィアに対してヴェネツィア名目上属国であるアルバニアのアルバノン公国英語版)が反乱起こした際に鎮圧協力することを約束するが、この盟約にはゼタラスキア対立影響していたと思われる一方ネマニッチは1208年に娘のコムネナをアルバノン公国君主ディミトリ元に嫁がせ、セルビアとアルバノンの間に同盟関係成立させる。しかし、エピロス専制侯国君主ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスによってアルバノン公国支配するクルヤ占領され敗れたディミトリ消息を絶つディミトリ失脚後に遺された領地未亡人となったコムネナが相続するが、コムネナはディミトリ次いでクルヤ支配権得たアルバニアギリシャ人英語版)グレゴリウス・カモナスと再婚した。この婚姻によりセルビアアルバニアの関係は強化されセルビアによるアルバニア北西部都市スクタリへの攻撃沈静化した。 クルヤ続いてスクタリ征服したミカエル1世コムネノス・ドゥーカス更なる領土拡張試みたが、1214年から1215年にかけてセルビア軍イピロス侵攻食い止めミカエル1世彼の従者によって暗殺された。ミカエル1世死後に跡を継いだ弟のテオドロス1世積極的な外交政策展開するが、方針転換して兄の仇敵であったネマニッチと同盟結んだ。そしてこの同盟際し、ラドスラヴとテオドロス1世の娘の間に婚姻成立した。 ネマニッチは1216年までにゼタ軍事力によって支配し王室支配下入ったゼタはネマニッチ(あるいはラドスラヴ)の統治下に置かれることになる。1216年から長期わたってゼタには特定の統治者置かれることは無く王位継承者授与される特別な土地とされた。

※この「ゼタ・アルバニアを巡って」の解説は、「ステファン・ネマニッチ」の解説の一部です。
「ゼタ・アルバニアを巡って」を含む「ステファン・ネマニッチ」の記事については、「ステファン・ネマニッチ」の概要を参照ください。

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