イピロス
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イピロス(ギリシャ語: Ήπειρος / Ípiros、アルバニア語: Epiri)は、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)のひとつ。歴史的な地名としては、現在のギリシャとアルバニアにまたがるイオニア海沿岸の地域を指す (Epirus (region)) 。
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- ^ ここでの「都市」は中心市街地区を指し、自治体の郊外部を含まない。
- ^ Liddell, Henry George; Scott, Robert (1940). "ἤπειρ-ος". A Greek-English Lexicon. Oxford, United Kingdom: Clarendon Press.
- ^ ギリシャ軍も独・伊に降伏(『朝日新聞』昭和16年4月24日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p388 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
イピロス
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詳細は「チャメリア」を参照 イピロス(チャメリア)は1912年11月28日、アルバニア国家の独立宣言によるオスマン帝国軍の退却に伴って、誕生したばかりのアルバニア国家に与えられた。しかし、1913年のロンドン会議(en)によってギリシャ領とされた。戦間期にアルバニアを併合したイタリアが1943年に敗戦してからは、多くのイスラム教徒のチャメリア人(Çams)はイタリア軍にかわってチャメリアを占領したドイツ軍に加わり、チャメリア人部隊を結成した。別のチャメリア人のコミュニティはギリシャのレジスタンス組織である民族解放戦線(en)に加わった。ギリシャの民族解放戦線には1944年の段階でおよそ2500人のメンバーがいた。1944年、ギリシャの別のレジスタンス組織でイギリスの特殊作戦執行部に指導されていた ギリシャ民族共和同盟によって、チャメリアのアルバニア人はギリシャ領から強制的に退去させられた。1928年のギリシャによる調査では、イピロスには18600人~19600人のイスラム教徒がいた。第二次世界大戦後の初の統計調査では、わずか123人のイスラム教徒のチャメリア人がこの地域にとどまっていた。アルバニアに脱出したイスラム教徒のチャメリア人(およそ20万人がアルバニアに暮らしている)は、およそ3万5千人のイスラム教徒のチャメリア人が戦前まで南イピロスに暮らしていたと主張している。彼らは自身をイピロスを指し示すアルバニア語「チャメリア」(Çamëria)にちなんでチャメリア人(Çam)と呼んでいるが、イピロス人(Epir)の語もまた使用されている。これらのチャメリア人の多くが、ギリシャによって接収されたイピロスに残された財産に対する補償を求めている。一方ギリシャの立場からは、このような問題は存在しないものとされる。
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