ジョン・シャーマン
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ナビゲーションに移動 検索に移動ジョン・シャーマン
- ジョン・シャーマン (政治家) - アメリカ合衆国の政治家。アメリカ合衆国財務長官とアメリカ合衆国国務長官を務めた。
- ジョン・シャーマン (登山家) - アメリカ合衆国の登山家。ボルダリングの先駆者。
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ジョン・シャーマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:15 UTC 版)
「1880年共和党全国大会」の記事における「ジョン・シャーマン」の解説
ジョン・シャーマンはオハイオ州選出のアメリカ合衆国上院議員を長く務めており、また1850年代後半から1860年代初期にはアメリカ合衆国下院議員も務めていた。上院議員としてのシャーマンは全国銀行システムの計画を指導していた。また南北戦争後の銀行システムについて全国的な政策を監督していた。1873年恐慌の後は国内の財政を回復させることに貢献していた。ヘイズ大統領の内閣でアメリカ合衆国財務長官を務めており、金本位制と国内金準備高の積み上げを提唱していた。1880年、シャーマンは能力主義の下で政府職員の再評価を行うよう推薦してもいた。その推薦は1883年のペンドルトン公務員改革法に結実し、ハーフ・ブリード派が起案し、ストールワート派の大統領チェスター・A・アーサーの署名で法制化された。 シャーマンの仲間はその立候補にあまり自信を持てなかった。シャーマンはそのカリスマ性の無い性格について「オハイオ・アイシクル」(冷淡な人)と呼ばれており、有権者へのアピールが足りなかった。その仲間は、大衆の中でシャーマンは「雄弁ではないが、優美な話し手であり、ほとんど本当のことしか話さないように規制している。」とコメントしていた。私的には「無口で、打ち解けない」性格であり、多くのアメリカ人が快くは思わない性格だった。シャーマンは大統領になれば、財務長官として実行してきたように、金本位に裏付けられた統制を実行しようと望んでいた。大会の始まる前に新聞はシャーマンが指名投票で110票を受けると予測した。シャーマンは投票を5、6回繰り返した後に、グラントの票が割れたとすれば、指名に至る可能性があると考えていた。
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