コソボ紛争の余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 15:50 UTC 版)
「北マケドニアの歴史」の記事における「コソボ紛争の余波」の解説
マケドニア国内への紛争の波及を予防するためにセルビアとの国境地帯に派遣されていた国際連合保護軍(UNPROFOR)は、その後も国際連合予防展開軍(UNPREDEP)へと引き継がれ、マケドニア国内に展開していた。ユーゴスラビア人民軍の撤退と兵器の引き揚げ、国際社会への参加の遅れ、そして厳しい経済状況によって、マケドニア共和国の防衛体制は「警察程度」しかないといわれるほど貧弱なものであった。マケドニア共和国に紛争が波及しなかったのは、この国際連合保護軍によるところも大きかった。 1998年11月、それまで首相の座にあった左派のマケドニア社会民主同盟(SDSM)のブランコ・ツルヴェンコフスキに代わり、初めて右派の内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党(VMRO-DPMNE)のリュブチョ・ゲオルギエフスキが首相となった。VMRO-DPMNEは、2つある有力なアルバニア人政党のうち、それまで連立与党にあった民主繁栄党に代わって、より民族主義色の強いアルバニア人民主党と連立を組んだ。1998年1月、ゲオルギエフスキの新政権は、援助金を欲して中華民国(台湾)を国家承認し、中華人民共和国と断交した。これに怒った中華人民共和国は国連安保理で、1999年2月のUNPREDEPの任期延長を拒んだ。これによってUNPREDEPは任期切れとなり、マケドニア共和国から撤退せざるを得なくなった。大統領のキロ・グリゴロフは、新政権を非難した。 同じ年、隣接するセルビア領のコソボ自治州では、セルビアからの独立を求めるアルバニア人組織・コソボ解放軍とセルビア側との衝突・コソボ紛争が激化していた。アルバニア人を初めとする大量の人々が、セルビア側の勢力の迫害を恐れて難民となり、隣接するマケドニア共和国に流れ込んできた。マケドニア共和国に流入した難民の数は20万人を超えた。彼らを収容する難民キャンプや野戦病院が設置された他、個人的にマケドニア国内の親族等を頼り彼らの家に身を寄せる者も多かった。1999年6月、セルビアがコソボ自治州から撤退した後、彼らの多くはコソボへと帰還していった。この1999年は、人口200万人程度のマケドニアに20万人を超える難民が流入したことや、セルビアとの交易が著しく困難となったことによって、マケドニア共和国の経済は再びマイナス成長となった。 1999年11月、初代大統領のキロ・グリゴロフの退任により、VMRO-DPMNEのボリス・トライコフスキが新しい大統領に選ばれた。
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