キセリャクの村々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)
「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「キセリャクの村々」の解説
1993年4月18日、キセリャク自治体にあるボシュニャク人の村々が攻撃を受けた。攻撃はティホミル・ブラシュキッチ(英語版)大佐の命令によるもので、命令では2つの村を制圧し「全ての敵対勢力」をクロアチア防衛評議会の管理下に置くことが定められていた。ゴミオニツァ(Gomionica)、スヴィニャレヴォ(Svinjarevo)、ベフリチ(Behrići)の3村は主要道路に沿って互いに隣接しており、これら3村に加えてロティリ(Rotilj)、グロミリャク(Gromiljak、ポリェ・ヴィシュニツァ(Polje Višnjica)やその他キセリャク市内にあるボシュニャク人の村々が次々に攻撃を受けた。これらの村々に住むボシュニャク人は殺害されるか放逐され、家屋やモスクは放火され、加えてスヴィニャレヴォとゴミオニツァでは略奪が行われた。ロティリでは、クロアチア防衛評議会が村を包囲する前に村の郷土防衛隊(TO)に武器を捨てるよう勧告が行われた。攻撃による村の平野部は放火され、家屋や納屋など20棟が破壊され、7名の市民が殺害された。 クロアチア防衛評議会はスヴィニャレヴォに対して60ミリ、80ミリおよび120ミリメートル口径の迫撃砲、ならびに高射砲を用いて攻撃した。砲撃が終わるとボスニア郷土防衛隊は200名の市民を引き連れて村から緊急脱出を始めた。クロアチア防衛評議会の兵士はスヴィニャレヴォや、ラウシェヴァツ(Rauševac)、プリシェヴォ(Puriševo)、ヤポイレヴォ(Japojrevo)、イェホヴァツ(Jehovac)といった周辺の村々に立ち入り、ボシュニャク人の家屋に放火し10名の市民を殺害した。この他に市民をキセリャクの兵舎に連行し、数週間に渡って拘束した。攻撃は1993年4月23日まで続けられた。 欧州共同体監視団(英語版)の監視員が村を訪れた時には、ボシュニャク人はほぼすべていなくなり、彼らの家屋は焼き払われており、この地域で民族浄化が行われたと結論づけた。旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、ダリオ・コルディッチ(英語版)がキセリャク自治体域内におけるこれらの攻撃に関与していると断定した。攻撃はヴィテズはブソヴァチャなどのラシュヴァ渓谷での攻撃の2日後に行われており、中央ボスニアにおけるムスリム人への一連の民族浄化作戦の一部を成すものであった。ブラシュキッチが行政上の承認なしに攻撃を行うことはできず、すなわち政治指導者であるダリオ・コルディッチの指示により攻撃が実行されたと断定されている。
※この「キセリャクの村々」の解説は、「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の解説の一部です。
「キセリャクの村々」を含む「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事については、「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の概要を参照ください。
- キセリャクの村々のページへのリンク