カンナエの戦い
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カンナエの戦い(カンナエのたたかい)は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こった第二次ポエニ戦争における共和政ローマとカルタゴの戦いである。カンネーの戦いとも表記する。
- ^ Theodor Mommsen 1984 Römische Geschichte; Bd. 1 --Deutscher Taschenbuch Verlag
- 1 カンナエの戦いとは
- 2 カンナエの戦いの概要
- 3 戦闘展開
- 4 戦後と影響
- 5 参考書籍
カンナエの戦い
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カンナエの戦いは紀元前216年8月2日にパウエルとヴァロが指揮するローマ軍部隊とハンニバルが指揮するカルタゴ軍部隊のカンネー付近における戦闘である。 カルタゴ軍とローマ軍はカンネ付近のアウフィダス河南岸に10kmの距離を置いて築城・宿営した。ハンニバルは敵ローマ軍の指揮官がヴァロであることを知り、決戦に誘うことを決心する。カルタゴ軍は歩兵8千を陣地に残して敵を誘致し、主力である4万を率いて北岸に移動しそこで背水の陣で横隊に展開して決戦を準備する。ヴァロは誘致に応じてカルタゴ軍の陣地を別動隊1万で攻撃、主力部隊7万を率いて渡河し、カルタゴ軍に対して横隊に展開した。両軍とも両翼に騎兵部隊を配していた。 戦闘はカルタゴ軍が先制した。ハンニバルはカルタゴ軍の重歩兵部隊に不動を命じ、中央の軽歩兵部隊を傘型陣形で前進させてローマ軍中央の歩兵部隊を拘束しつつ、左翼の騎兵部隊にも正面攻撃を命じ、ローマ軍右翼をも拘束する。拘束に成功するとハンニバルはカルタゴ軍左翼の予備騎兵部隊をローマ軍右翼の背後へ包囲して挟撃してこれを撃破する。続いて同予備騎兵部隊はローマ軍中央の背後を移動してローマ軍左翼の背後に迂回し、カルタゴ軍右翼の騎兵部隊と挟撃してローマ軍左翼をも撃破した。このときヴァロは中央の歩兵部隊の全戦力を運用してカルタゴ軍の中央突破で勝利することに注目しており、カルタゴ軍中央の歩兵部隊は凹字型の態勢に圧迫されていた。ハンニバルはローマ軍両翼の騎兵部隊を撃破したこととローマ軍背後に移動したカルタゴ軍予備騎兵部隊の戦闘態勢が準備されたのを受け、この時点で最初に使用しなかった重歩兵部隊をも投入して全軍に包囲と突撃を命令して勝敗は決した。 ローマ軍はカルタゴ軍の完全包囲の攻撃を受けて壊滅的な被害を受けた。ローマ軍の死傷者は6万、1万が捕虜となった。さらに指揮官のパウルスが戦死し、ヴァロも敗退した。また別働隊としてカルタゴ軍の陣地を攻撃していた1万の部隊も2千の損害を出して敗走した。カルタゴ軍の死傷者は5千7百であった。この時のハンニバルの戦術は第一次世界大戦前に各国軍で戦史研究が進められ、敵を決戦に誘致し(主導の原則)、戦闘では敵の主攻を中央の歩兵部隊で拘束している間に左翼の騎兵部隊で逆に敵の弱点に向かって機動し(機動の原則、奇襲の原則)、最後に全戦力で打撃する(経済の原則)という攻防を組み合わせた模範的な戦術を実施した(詳細はカンナエの戦いを参照)。
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