オーストリアの改革
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「オーストリアの改革」の解説
1805年のアウステルリッツとそれに続くプレスブルクの和約はオーストリア軍に改革の必要性を示していた。ナポレオンはアウステルリッツの後カール大公をオーストリアの王位に付かせる事を提案し、この事はカール大公の兄であるオーストリア皇帝フランツ2世の深い猜疑心を駆り立てる事になった。カール大公は軍の改革の先鋒を務める事が許されたにもかかわらず、フランツは軍事顧問であり続け、最高司令官としてカール大公の活動を監督した。 1806年、カール大公は軍と部隊戦術の新しい指針を発した。主な戦術的な革新は集団の概念であり、兵士たちの隊列の間を閉じる事で対騎兵の集団を作った。しかしオーストリア司令官は革新を嫌がり、カール大帝が直接監督する場合を除いて滅多に集団戦法を使わなかった。ウルムとアウステルリッツの敗北の後、オーストリアは1805年にマックの元で導入された1個大隊を4個中隊で編成する運用を止め、1個大隊を6つの中隊で編成するように戻した。しかし改革を行った後も問題は続いた。オーストリアがフランス軍と戦うには散兵が不足し、騎兵はしばしば個別の部隊として軍全体に分散して配備されており、明らかにフランス軍に対して打撃を与える事を妨げていた。カール大公がフランスの軍団の司令構造を真似ようとしたが、オーストリアの軍事的支配層は主導権を奪われることに慎重であり、物事が決定される前には紙に書かれた重い命令書と長々と続く計画に頼っていた。 またオーストリアでは別の改革が行われ始めた。オーストリアは多くの将校、熟練兵、正規兵を失い、同盟を結ぶこともできなくなったため、フランスが早期に使い始めた徴兵を取り入れるようになった。既にフランスは熟練した歴戦の兵士を中心とした常備軍を形成する為に徴兵に頼らなくなった。ナポレオン戦争の初期には、戦闘経験を持たないフランス人がオーストリアの常備軍との戦いに度々徴兵された。しかし第五次対仏大同盟では徴兵された多くのオーストリア兵は全く戦闘経験が無く、基礎的な訓練と装備のみを与えられた状態で、フランスの大陸軍との戦場に送られた。
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