オーストリアの侵攻
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「1809年オーストリア戦役」の記事における「オーストリアの侵攻」の解説
1809年4月9日、カール大公率いる20万のオーストリア軍主力はイン川を渡り、フランスの同盟国バイエルンへの侵攻を開始した。同時にフェルディナント大公の軍団がワルシャワ公国へ、ヨハン大公の軍団がイタリアへ侵攻した。悪路で、雨水が凍っていたため、オーストリア軍の最初の1週間の進軍は遅かったが、バイエルン軍は徐々に後退していった。オーストリア軍の攻撃はナポレオンの予想よりも1週間早く行われたため、彼の不在の間ベルティエの役割はあらゆる面で非常に重要であった。ベルティエは優秀な参謀であったが、野戦軍司令官としての能力は不十分であった。更に悪いことにパリからのメッセージの内いくつかは遅れたため、本部に到着する頃には誤っている情報として伝わりベルティエの短所が露見した。一方ナポレオンはベルティエに手紙を書き、オーストリアの攻撃が4月15日までに行われた場合、フランスの将軍はドナウヴェルトとアウクスブルクの周辺で合流しなければならないと伝えた。ベルティエは多くのオーストリア軍の圧力にも関わらず命令文に固執し、ダヴーとその指揮下の第三軍団をレーゲンスブルクへと呼び寄せて、都市まで後退するよう命じた。 大陸軍の両翼はバイエルン軍による哨兵線によって薄く結合していたが、121km離れており危険な状況であった。フランス元帥のベルティエと兵卒は要領を得ない行軍と反転に苛立っていた。16日にはオーストリアの前進によりバイエルン軍がランツフート近郊まで後退し、夕方にはイーザル川を安全に渡れる地点を確保した。17日朝、ナポレオンはドナウヴェルトに到着した。カール大公は戦役の開始が成功した事で自身を祝い、ダヴーとルフェーヴルの孤立した軍団を両翼包囲によって殲滅しようと計画した。多くのオーストリア軍が既にイーザル川を渡り、ドナウ川に向かっている事にナポレオンが気付いた時、ナポレオンはフランス全軍をイルム川(英語版)の後方へ48時間以内に展開する事を要求し、ベルティエの命令が行われず、戦力の集中が達成出来ることを願った。ナポレオンの命令はダヴーの元へ向かっているオーストリア軍の数を過小評価していたため、非現実的であった。ナポレオンはカール大公がイザール川を超えさせた軍団は1個軍団のみであると考えていたが、実際にはオーストリア軍は5個軍団がレーゲンスブルクに向かっており、総数は80,000名であった。
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