オーストリアの準備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 19:36 UTC 版)
「1809年オーストリア戦役」の記事における「オーストリアの準備」の解説
カール大公と宮廷評議会はフランスへの攻撃の方針で意見が別れた。カール大公は主軍によってボヘミアを突破し、北ドイツのフランス軍を孤立させ、速やかに決戦に挑もうとした。オーストリア軍の大部分は既にボヘミアに集中し、これは自然な作戦遂行であった。宮廷評議会はドナウ川がカール大公と彼の弟のヨハン大公の軍を分断する事を理由にカール大公の作戦に反対した。彼らはウィーンとの連絡網を安全に維持出来るようにドナウ川の南から主軍は攻撃するべきだと主張した。結局、彼らは貴重な時間を失う前にカール大公に道を譲った。オーストリアはベルガルド(英語版)指揮下の38,000名のボヘミアの第一軍団とコロヴラート(英語版)指揮下の20,000名の軍勢はボヘミアの山々のシャムの道からレーゲンスブルクを攻撃した。オーストリアの中央と予備兵力はホーエンツォレルンの第3軍団、ローゼンベルグの第4軍団、リヒテンシュタインの第一予備軍団の合計66,000名の兵で構成されており、シェルディング(英語版)を経由して、レーゲンスブルクを攻撃した。左翼はルイ大公の第5軍団、ヒラーの第6軍団とキーンマイヤー(英語版)の第2予備軍団の合計61,000名で構成されており、ランツフートへ向かいながら側面を防衛した。
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