エストニア戦線とは? わかりやすく解説

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エストニア戦線

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/19 09:02 UTC 版)

レオン・ジリス」の記事における「エストニア戦線」の解説

1944年2月からエストニアにおいて始まったナルヴァの戦いは、1944年7月末の時点におけるナルヴァ市の放棄という形でドイツ軍敗北終わった。これによって現地ドイツ北方軍集団ナルヴァ西方タンネンベルク線後退し迫り来るソビエト赤軍迎え撃つ体勢入った。こうして風雲急を告げるエストニア戦線には次々と増援部隊送り込まれ、チェルカッスィー戦後にその損害回復していた第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」にも、1個大隊エストニア派遣するよう命令下った1944年7月末、第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」は新兵歴戦将校下士官構成され総員452名の1個戦闘団「リュエル」戦闘団Kampfgruppe Ruelle)、またの名を「ヴァロニェン」戦闘団Kampfgruppe Wallonien)を編成し、エストニア戦線へ派遣した。この時、ジリス指揮執る対戦車砲小隊(75mm対戦車砲3門、下士官9名、総員27名)は同戦闘団第4中隊配属されていた。 1944年8月19日ジリス同日行われたPatska攻撃戦死した「ヴァロニェン」戦闘団第2中隊長マーク・ウィレムSS少尉(SS-Ustuf. Marc Willem)に代わって第2中隊長となり、22日までタルトゥ南部のKambja周辺における激戦参加した1944年8月23日午前0時30分、タルトゥ南西部においてジリス対戦車砲3門、迫撃砲兵員布陣させた。しかし、夜明け同時にジリス自分たちの周囲にいたはずのエストニア自警部隊いつのまに撤収していること、同時にソビエト赤軍部隊タルトゥ10キロメートル地点のLemmnasti目指し進軍中であることに気付いた対戦車砲小隊将兵個々戦闘によってジリスたちは敵の包囲突破したが、その途中で対戦車砲1門を撃破されてしまった。 1944年8月23日タルトゥ南部三角地帯(Elva-Kambja-Nôo)がソビエト赤軍の手落ちかけている頃、ジリスタルトゥ南西位置するNôoのリガ-タルトゥ街道保持せよとの緊急命令受けた。既にソビエト赤軍先鋒部隊タルトゥ北西部にまで進出し、北と南からタルトゥ市を挟撃するためVooraにおいてレンバッハ(Lembach)川を渡っていた。ジリス率い対戦車砲小隊戦いながらVooraまで辿り着いたが、そこで彼らは攻撃準備中ソビエト赤軍戦車スターリン重戦車を含む)10両と直面した同日午後2時、攻撃開始したソビエト赤軍戦車部隊対しジリス残っていた対戦車砲2門を指揮して戦車3両を撃破したものの、敵戦車応射によって対戦車砲ごと吹き飛ばされ一時的に失明した。しかし、すべての対戦車砲と己の視力失ってもなおジリス小隊生存者指揮し、ついに敵戦車進出を許さなかった。この功績によってジリス1944年9月6日にレオン・ドグレルから騎士鉄十字章受章推薦受けた。そしてジリス1944年9月30日騎士鉄十字章授与され同年11月9日付でSS中尉(SS-Obersturmführer)に昇進した

※この「エストニア戦線」の解説は、「レオン・ジリス」の解説の一部です。
「エストニア戦線」を含む「レオン・ジリス」の記事については、「レオン・ジリス」の概要を参照ください。

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