エストニア戦線
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1944年2月からエストニアにおいて始まったナルヴァの戦いは、1944年7月末の時点におけるナルヴァ市の放棄という形でドイツ軍の敗北に終わった。これによって現地のドイツ北方軍集団はナルヴァ市西方のタンネンベルク線に後退し、迫り来るソビエト赤軍を迎え撃つ体勢に入った。こうして風雲急を告げるエストニア戦線には次々と増援部隊が送り込まれ、チェルカッスィー戦後にその損害を回復していた第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」にも、1個大隊をエストニアへ派遣するよう命令が下った。 1944年7月末、第5SS義勇突撃旅団「ヴァロニェン」は新兵と歴戦の将校・下士官で構成された総員452名の1個戦闘団「リュエル」戦闘団(Kampfgruppe Ruelle)、またの名を「ヴァロニェン」戦闘団(Kampfgruppe Wallonien)を編成し、エストニア戦線へ派遣した。この時、ジリスが指揮を執る対戦車砲小隊(75mm対戦車砲3門、下士官9名、総員27名)は同戦闘団第4中隊に配属されていた。 1944年8月19日、ジリスは同日に行われたPatska村攻撃で戦死した「ヴァロニェン」戦闘団第2中隊長マーク・ウィレムSS少尉(SS-Ustuf. Marc Willem)に代わって第2中隊長となり、22日までタルトゥ南部のKambja周辺における激戦に参加した。 1944年8月23日午前0時30分、タルトゥ南西部においてジリスは対戦車砲3門、迫撃砲、兵員を布陣させた。しかし、夜明けと同時にジリスは自分たちの周囲にいたはずのエストニア自警部隊がいつのまにか撤収していること、同時にソビエト赤軍部隊がタルトゥ南10キロメートル地点のLemmnasti目指して進軍中であることに気付いた。対戦車砲小隊将兵の個々の戦闘によってジリスたちは敵の包囲を突破したが、その途中で対戦車砲1門を撃破されてしまった。 1944年8月23日、タルトゥ南部の三角地帯(Elva-Kambja-Nôo)がソビエト赤軍の手に落ちかけている頃、ジリスはタルトゥ南西に位置するNôoのリガ-タルトゥ街道を保持せよとの緊急命令を受けた。既にソビエト赤軍の先鋒部隊はタルトゥ北西部にまで進出し、北と南からタルトゥ市を挟撃するためVooraにおいてレンバッハ(Lembach)川を渡っていた。ジリス率いる対戦車砲小隊は戦いながらVooraまで辿り着いたが、そこで彼らは攻撃準備中のソビエト赤軍戦車(スターリン重戦車を含む)10両と直面した。 同日午後2時、攻撃を開始したソビエト赤軍戦車部隊に対し、ジリスは残っていた対戦車砲2門を指揮して敵戦車3両を撃破したものの、敵戦車の応射によって対戦車砲ごと吹き飛ばされ、一時的に失明した。しかし、すべての対戦車砲と己の視力を失ってもなおジリスは小隊の生存者を指揮し、ついに敵戦車の進出を許さなかった。この功績によってジリスは1944年9月6日にレオン・ドグレルから騎士鉄十字章受章の推薦を受けた。そしてジリスは1944年9月30日に騎士鉄十字章を授与され、同年11月9日付でSS中尉(SS-Obersturmführer)に昇進した。
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