エジプト考古学とピラミッド学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 03:19 UTC 版)
「ギザの大ピラミッド」の記事における「エジプト考古学とピラミッド学」の解説
プロイセン王国の考古学者カール・リヒャルト・レプシウスは1843年からのエジプト調査で多くの結果を残し、ピラミッドについては王の治世の長さによって大きくなるという成長理論を考案した。フランス人のオギュスト・マリエットは1858年に初代のエジプト考古局の局長に就任した。これにより破壊的な発掘の時代は終わり、学術的な調査が行われるようになった。 一方では大ピラミッドを疑似科学的に取り上げるピラミッド学が流行した。ニュートンが発見したキュビットの1/25が「ピラミッド・インチ」と呼ばれるようになり、数学者のジョン・テイラーや天文学者のジョン・ハーシェルらは大ピラミッドと地球を数値的に結び付けようとした。天文学者のピアッツィ・スミス(英語)は大ピラミッドを建てた古代エジプト人は世界が球体であることを知っていて、その南北の直径の5億分の1がピラミッド・インチで大ピラミッドは地球の縮図であると主張。さらにピラミッド・インチが現代のイギリスのインチの由来であり、大ピラミッドはイギリス人の祖先である失われたイスラム支族によって造られたと信じるようになった。スミスはこの仮説を証明するために、ウィリアム・ピートリーと息子のフリンダーズ・ピートリーに測量を依頼した。 フリンダーズ・ピートリーらは9か月にわたってギザ台地を測量したが、その結果はスミスの仮説を否定するものであった。これ以降、ピートリ―は神秘主義を捨て去り、調査結果と共に大ピラミッド建設に用いられた道具や労働者の組織、石の切り出し方や運び方などの考察を合わせて、1883年に『ギザのピラミッドと神殿』として出版した。ピートリ―は近代エジプト考古学の父と呼ばれている。 20世紀に入ると、エジプト考古局のガストン・マスペロはギザの周辺を分割し別々の外国人調査団に割り当てて同時に発掘を行わせるようになった。その結果、エジプト考古学は外国機関による大調査隊の時代となった。これにより大ピラミッド周辺での発掘調査で新たな発見が続く。1925年にはアメリカ人のジョージ・レイズナーがクフの母ヘテプヘレス王妃の副葬品を竪坑(G7000X号墓)から発見した。1949年にジャン=フィリップ・ロエールが葬祭殿の玄武岩の舗装や傾斜した参道の跡を調査した。また1954年にはカマル・マラックらが大ピラミッド南からクフ王の船を発見した。
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