イルハン朝の解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 21:49 UTC 版)
アブー・サイードが陣没したとき、ラシードゥッディーンの息子で宰相のギヤースッディーン(英語版)は、フレグの弟アリクブケの玄孫にあたる遠縁の王族アルパ・ケウンをハンに推戴させた。しかし、アルパ・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・パーディシャーに敗れて殺害された。以来イランは様々な家系に属するチンギス・カンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて次々とハンに改廃される混乱の時代に入った。 アリー・パーディシャーはバイドゥの孫のムーサーを擁立したが、ジャライル部のハサン・ブズルグ(大ハサン)が取って替わりフレグの子モンケ・テムルの玄孫であるムハンマドを擁立した。一方でホラーサーンではチンギス・カンの弟ジョチ・カサルの後裔であるトガ・テムルが周辺諸侯からハンと認められつつあり、逃げのびたムーサ―と反乱を起こした。これは失敗に終わったが、大ハサンもすぐにチョバン家のシャイフ・ハサン(小ハサン)に敗れて傀儡の君主であるムハンマドを失った。小ハサンが一族のサティ・ベクを女王として擁立すると大ハサンはこれに対抗してトガ・テムルをハンとして認めて擁立した。一時はトガ・テムルとサティを結婚させる案も出たが流れてしまい、トガ・テムルを見限った大ハサンはゲイハトゥの孫のジハーン・テムルをハンに擁立。小ハサンもフレグの子イシムトの後裔のスライマーンを老齢のサティと結婚させてハンに擁立した。抗争に勝利した小ハサンが1343年に暗殺されるとスライマーンはサティと共に混乱するチョバン家へ大ハサンの介入を求めた。しかしこれは失敗し、ハンたちは小ハサンの弟のアシュラフに追放されてしまった。以降はアヌシルワンという名の家系不明で実体すら定かでないハンが立てられる。1357年にチョバン家がアゼルバイジャンを巡ってジョチ・ウルスに滅ぼされるとイルハン朝は完全に滅亡した。 一方でホラーサーンを支配していたトガ・テムルは周辺諸侯から1350年前後まではハンと認められ続け、一度は見限った大ハサンもチョバン家に対抗して1344年までは改めてトガ・テムルをハンと認めていた。1353年、乱立したハンの中で最後まで生き残っていたトガ・テムルが殺害され、イランからはチンギス・カン一門の君主は消滅した。イラクでも大ハサンが1356年に死去すると次代のシャイフ・ウヴァイスは傀儡を立てずに自らハンに即位してジャライル朝を建国してジョチ・ウルスに滅ぼされたチョバン家領を併合していった こうしたアブー・サイード死去以来の混乱で、イランの各地にはムザッファル朝、インジュー朝、クルト朝、サルバダール政権、ギーラーン、マーザーダラーン諸政権など遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していった。アナトリアも同様でルーム・セルジューク朝時代から分離傾向にあったベイリクやトゥルクマーン諸政権が乱立した。これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった。
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