アメリカ合衆国の干渉とパナマ独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 14:16 UTC 版)
「千日戦争」の記事における「アメリカ合衆国の干渉とパナマ独立」の解説
1903年1月22日、コロンビアとアメリカはヘイ・エルラン条約に調印。10,000,000ドルの和解金と年250,000ドルの使用料で100年にわたるパナマ運河の建設権および運河地帯での行政権を認める。条約更新の優先権は米国側にあり、コロンビアはアメリカ合衆国以外の国に譲渡できないとする国辱的内容だった。 8月12日、コロンビア議会はパナマ運河条約批准を否決。アメリカ合衆国はマロキン政権打倒を画策。 11月3日、アメリカ合衆国政府はパナマ地方の反乱を支援しパナマ地峡を制圧。パナマ独立記念日となる。 コロンビアでは翌年、保守党穏健派のラファエル・レイェス(英語版)が大統領に当選。パナマの軍事的奪還を断念し、国内開発を進めるため1909年にアメリカ合衆国との間にトンプソン・ウルティア条約を締結する。この条約は否決されたが、以後、米国による米州地域への政治的・軍事的干渉は強まり、ラテンアメリカ諸国は「アメリカ合衆国の裏庭」と揶揄されるようになるのである。
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