バーラクザイ朝
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バーラクザイ朝(Barakzai dynasty)は、19世紀中盤から1973年までアフガニスタンに存在した王朝。首都はカーブル。
- ^ a b “バーラクザーイー”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(コトバンク所収). 2017年5月27日閲覧。
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.324。執筆者は勝藤猛。
- ^ a b c d e f “概要 アフガニスタンについて”. 鮮麗なる阿富汗 一八四八~石版画にみるアフガニスタンの風俗と習慣. 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 (2007年). 2017年5月27日閲覧。
- ^ a b “バーラクザイ朝”. 日本大百科事典ニッポニカ(コトバンク所収). 2017年5月27日閲覧。
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.324
- ^ 『アフガニスタンのさまざまな部族の衣装、貴婦人たち、著名な王子たちと族長たちの肖像、主な城砦と町、町の内部と寺院の光景』
- ^ a b c d 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、p.137
- ^ 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、pp.137-138
- ^ 登利谷正人「コラム 19世紀アフガニスタンの対周辺国関係」、『アフガニスタンと周辺国-6年間の経験と復興への展望』(日本貿易振興機構アジア経済研究所、2008年)、p.141
- ^ Wikimedia commons の図版 等より[信頼性要検証]
アフガニスタン首長国
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「アフガニスタンの歴史」の記事における「アフガニスタン首長国」の解説
1835年には君主の称号をアミールに変え、アフガニスタン首長国となった。1830年代、当時のアフガニスタンは、中央アジアへの南下政策を推進するロシアと植民地インドの防衛を至上とするイギリスの対立(第I期グレート・ゲーム)に巻き込まれていた。1838年、インド総督ジョージ・イーデンがアフガニスタン派兵を決断した。第一次アフガン戦争の始まりである。イギリス軍は、何の抵抗も受けずにカンダハールを占領した。1839年7月イギリス軍は一気にカーブルに攻め込んだ。シャー・シュジャーは復位した。1840年ドースト・ムハンマドは抵抗したが成功せず、カーブル城下でイギリス軍に降伏し、カルカッタに追放された。 しかし1841年秋よりイギリス軍は度重なる襲撃を受け、総督府の代表であったマクノーテン(英語版)と補佐役のバーンズも死去し、カーブルからの撤退を決める。翌年ジャララバードの駐屯地に向けて退却を開始するが、到着するまでに2万人近いイギリス軍側の兵士と非戦闘員はほぼ全滅した。更迭されたイーデンに代わりインド総督となったエレンボローはアフガニスタンに対し報復攻撃を開始、1842年7月にはカーブルに突入し捕虜となっていた兵士を救出、バザールを焼き払うなどしカーブルを破壊した。1842年9月、イギリス軍はカーブルを引き揚げて第一次アフガン戦争は終わった。 1843年にドースト・ムハンマドは帰国、シャー・シュジャーは暗殺され、ドースト・ムハンマドが再び実権を握った。さらに、イランのガージャール朝もアフガニスタンへの影響力強化を図っていた。こうしたなかで、アフガニスタンは1855年にイギリスとペシャーワル条約(英: Treaty of Peshawar )を結び、両国の相互防衛を定めた。そのため、翌1856年にガージャール朝のナーセロッディーン・シャーがヘラートへ遠征すると、イギリスはヘラートを奪回しつつイランを攻撃し、1857年にパリ条約を認めさせてガージャール朝のアフガン進出を挫いた。これにより、アフガニスタン国家の領域が明確になっていった。
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