アイルランド民族運動の弾圧
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「アーサー・バルフォア」の記事における「アイルランド民族運動の弾圧」の解説
バルフォアがアイルランド担当相に就任した時、アイルランド問題は深刻化していた。1886年9月にアイルランド国民党(英語版)党首チャールズ・スチュワート・パーネルが議会に提出したアイルランドの地代を半減させる法案が否決されて以降、アイルランドでは小作人同士が協定を結んで勝手に地代を減額し、地主がそれを承諾して受け取ればよし、受け取らねば、その地主が小作人を強制立ち退きさせた時の抵抗運動に備えて供託するという闘争が行われていたのである。これにより強制立ち退きと暴動の危険が高まっていた。 これに対してバルフォアはアイルランド民族運動の弾圧を可能とする強圧法の制定を急いだ。その法案の第二読会での審議の最中の1887年4月8日に『タイムズ』紙がパーネルが元アイルランド担当大臣フレデリック・キャヴェンディッシュ卿の暗殺を支持していたことを示唆する記事を掲載した。パーネルはその事実関係を否認したが、この記事は大きな反響を呼び、バルフォアの強圧法案の良き追い風となった。強圧法は8月にも可決成立した。 この後、バルフォアは強圧法を駆使してアイルランドで激しい弾圧を行い、アイルランド国民党の議員たちを含むアイルランド民族運動指導者たちを軒並み逮捕していった。アイルランドの刑務所はあっという間に満杯になったという。その弾圧の容赦の無さからバルフォアはアイルランド人から「クララ」改め「血塗られたバルフォア(“Bloody Balfour”)」と呼ばれ恐れられるようになった。 1887年9月9日、アイルランド・コーク県ミッチェルスタウン(英語版)で警官と農民が衝突し、農民3人が警察官に銃殺される事件が発生した。検死の陪審官は警察官による故意の殺人と断定したが、バルフォアは警官の行動を称賛した。これに対してアイルランド自治を決意していた野党自由党のグラッドストンは「ミッチェルスタウンを記憶せよ(Remember Mitchelstown)」を自由党のスローガンに定めてアイルランド問題を中心に与党保守党と対決する姿勢を強めた。
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