小出兼政(こいで かねまさ 1797-1865)
幕末の暦学者、算学者。
阿波(徳島)藩士の家に生まれ、9歳で跡目を継いだ。29歳のとき(文政9 1826)勉学修業のため藩を辞し、江戸に出て和算を関流の日下誠(1764-1839)に学び、和田寧(1787-1840)につき円や弧に関する算法「円理」を究め、さらに会田安明(1747-1817)の子会田善左衛門からは最上流を学んだ。
その後も円通(1755-1834)に暦術を学び、天保5(1834)年には土御門家に入門し、のちに師範代、準学頭となった。
さらに38歳の時(天保6年 )、江戸に赴き天文方渋川景佑に学んだ。小出が成した和算・暦術の著書は『五星暦』、『算法対数表』(これは刊行されたわが国最初の対数表である)など多数ある。さらに小出は、フランスの天文学者ジェローム・ラランド (1732~1807)の天文書「ラランデ暦書」の翻訳にあたったことで知られる。
同暦書の翻訳は、幕府天文方高橋至時が(「ラランデ暦書管見」第1巻として一部完)、その後は子の渋川景佑、間重富、通詞馬場佐十郎らがあたったが、完全な翻訳には至らなかった(同書をもとにした「新巧暦書」全40巻を完成させた)。
一方、小出兼政は渋川景佑に師事してまもなく、「ラランデ暦書」の存在を知って、その翻訳を師に申し出たが技量の未熟さを理由に断られていた。53歳のとき(嘉永3年1850年)、極めて高価であった念願の同書を自ら入手し、養子の小出由岐左衛門、蘭方医の高畠耕斎らと共同で翻訳にあたり、その一部を『蘭垤訳書』全7冊としてまとめた。
また、のちに「測量集成」の著者となる福田泉(理軒 1815-1889)は天保13年には土御門家にあったが、彼が嘉永6年(1853)以前に開発し、ペリーの浦賀来航の際に使用したとされる経緯儀は、福田の師にあたる小出兼政製作の機器をベースにしたものだという。
福田理軒の「測量集成」で紹介されている経緯儀
阿波(徳島)藩士の家に生まれ、9歳で跡目を継いだ。29歳のとき(文政9 1826)勉学修業のため藩を辞し、江戸に出て和算を関流の日下誠(1764-1839)に学び、和田寧(1787-1840)につき円や弧に関する算法「円理」を究め、さらに会田安明(1747-1817)の子会田善左衛門からは最上流を学んだ。
その後も円通(1755-1834)に暦術を学び、天保5(1834)年には土御門家に入門し、のちに師範代、準学頭となった。
さらに38歳の時(天保6年 )、江戸に赴き天文方渋川景佑に学んだ。小出が成した和算・暦術の著書は『五星暦』、『算法対数表』(これは刊行されたわが国最初の対数表である)など多数ある。さらに小出は、フランスの天文学者ジェローム・ラランド (1732~1807)の天文書「ラランデ暦書」の翻訳にあたったことで知られる。
同暦書の翻訳は、幕府天文方高橋至時が(「ラランデ暦書管見」第1巻として一部完)、その後は子の渋川景佑、間重富、通詞馬場佐十郎らがあたったが、完全な翻訳には至らなかった(同書をもとにした「新巧暦書」全40巻を完成させた)。
一方、小出兼政は渋川景佑に師事してまもなく、「ラランデ暦書」の存在を知って、その翻訳を師に申し出たが技量の未熟さを理由に断られていた。53歳のとき(嘉永3年1850年)、極めて高価であった念願の同書を自ら入手し、養子の小出由岐左衛門、蘭方医の高畠耕斎らと共同で翻訳にあたり、その一部を『蘭垤訳書』全7冊としてまとめた。
また、のちに「測量集成」の著者となる福田泉(理軒 1815-1889)は天保13年には土御門家にあったが、彼が嘉永6年(1853)以前に開発し、ペリーの浦賀来航の際に使用したとされる経緯儀は、福田の師にあたる小出兼政製作の機器をベースにしたものだという。
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