『隋書』百済伝
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百済の祖先は高麗国(高句麗)から出た(以下、扶余の建国神話である東明伝説を要約したと見られる記事が続く。東明伝説については「東明聖王#夫余の建国伝説との比較」を参照)。東明の後に仇台(きゅうだい、クデ)という慈悲深い人が現れた。初めは国を帯方郡の故地に建てたが、後漢の遼東太守の公孫度が娘を嫁がせ、東夷の強国となった。百家とともに海を渡ったのに因んで「百済」と号した(初以百家濟海,因號百濟)。 『三国史記』百済本紀の分注では、上掲の「沸流を始祖とする伝説」に続けて「『北史』や『隋書』に、東明の後に仇台あり…東夷の強国となった」と記され、かつ、「未知孰是」(ある本の伝えるのと、『北史』『隋書』の伝えるのとどちらが正しいのか分からない)ということばで分注を締めくくっている。 『隋書』(656年)よりわずかに早く編纂された『周書』(636年)には、「百済の祖先は恐らく馬韓の属国であり、夫余の別種である。仇台(きゅうだい、クデ)というものがあって、帯方郡の地に国を興した」とある。また、風俗を記して「毎年四回、始祖である仇台の廟を祭る」ともしており、この祖先祭祀記事は『隋書』百済伝にも受け継がれている。井上訳注本では、『三国志』夫余伝の「漢末に公孫度が勢力を増したとき、夫余王の慰仇台(いきゅうだい、ウィクデ)が遼東郡に服属した。公孫度が高句麗・鮮卑を牽制するために一族の娘を夫余王の妻とした」と言う記事を、『隋書』が誤って百済の記事に混同させたものとする。(→井上訳注1983)
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