「長岡文化創造フォーラム」構想
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「長岡市シティホールプラザアオーレ長岡」の記事における「「長岡文化創造フォーラム」構想」の解説
前掲の長岡市厚生会館は体育館を基本に設計された多目的ホールで、1945年(昭和20年)の長岡空襲で被災し、且つ老朽化が進んでいたホール施設「長岡市公会堂」の後継施設として1958年(昭和33年)に竣工したが、市内では1970年代以降に体育館やホール、コンベンション施設の整備が相次いだ上に、厚生会館自体も老朽化が著しくなり、稼働機会が減少していた。 長岡市では厚生会館の後継となる施設の整備計画を進め、前庭にあたる「宝田公園」と裏庭にあたる「長岡セントラルパーク」も含めた地区を建設用地として、複合型交流施設を整備する「厚生会館地区整備推進計画」が1996年(平成8年)8月にまとめられた。この施設には「長岡文化創造フォーラム」という仮称が付与され、同年に行われたデザインコンペでは建築家・岡部憲明のデザイン案「緑の都市舞台 - 長岡アーバン・ステージ」が採用されることになり、翌1997年度中の着工を目指して計画が進められた。 ところが1997年(平成9年)3月になって、長岡市は慢性的な財政難を理由に、文化創造フォーラムの建設事業着工を3年間延期する方針を発表し、その後計画そのものが白紙化された。この煽りを受け、老朽化した厚生会館は設備の補修もままならぬまま、引き続き存続することになった。 文化創造フォーラムの事業中断から7年を経て、長岡市は2004年3月に答申された「長岡市中心市街地の構造改革に関する提言」に基づいて「公共サービスのまちなか回帰」を促進するため、厚生会館を含む地区を先導的事業地区と位置づけ、各種施策への取り組みを本格化した。同年の中越地震で施策は一時中断したものの、2006年3月に「厚生会館地区整備基本構想」を、続いて同年5月に「厚生会館地区整備の基本理念」を策定した。そこへ市役所の移転計画が加わり、交流施設の整備構想が再び陽の目を見ることとなった。
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