FCポリテフニカ・ティミショアラ FCポリテフニカ・ティミショアラの概要

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FCポリテフニカ・ティミショアラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 14:25 UTC 版)

ポリテフニカ・ティミショアラ
原語表記 Fotbal Club Politehnica Timișoara
呼称 Poli Timișoara
愛称
  • Alb-violeții (The White-Purples)
  • Băieții în Ghete (Boys in Boots)
  • Timișorenii (The Timișoara People)
  • Bănățenii (The Banat People)
  • Echipa de pe Bega (The Bega River Team)
クラブカラー 白と紫
創設年 1921年
解散年 2012年
ホームタウン ティミショアラ
ホームスタジアム ダン・パルティニシャヌ
収容人数 32,972
ホームカラー
アウェイカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

歴史

黎明期 (1921-1997)

1921年にティミショアラ工科大学によって、ソシエタテア・スポルティヴァ・ポリテフニカSocietatea Sportivă Politehnica)として設立[1][2]。第二次世界大戦勃発までに、同じティミショアラに本拠を構えるCAT、RGMT、チネズルといった強豪に肩を並べるまでになった[2]

敗戦後の1948年にはディヴィジアAに初めて昇格[3]CSUティミショアラ (CSU Timişoara) として最初のシーズンを迎えた[4]

1950シーズンは (1950年[5]以降)、シュティインツァ・ティミショアラ (Ştiinţa Timişoara) として参戦した。翌1951シーズンはリーグ戦12チーム中最下位に終わり降格したものの[6]、僅か1年でディヴィジアAに復帰、[7]1958-59年まで居続けた[8]。1959-60シーズンは2度目のディヴィジアA復帰が実現し、僅か1年で戻ってくることになった[9]。1963-64シーズンは、14チーム中13位に終わり3度目の降格[10]、翌1964-65シーズンには、3度目のディヴィジアA復帰を果たすなどエレベータークラブとしての歴史を歩む[11]

シュティインツァ時代には、1957-58シーズンのクパ・ロムニエイでプログレスル・ブカレスト (Progresul Bucureşti) を1-0で下し初のタイトルを獲得している[要出典]

1966-67シーズンからはポリテフニカ・ティミショアラ (Politehnica Timişoara) に改称[12]

1977-78シーズンにおいてリーグ戦を3位で終えたため、UEFAカップ1978-79への出場がヨーロッパの舞台にはじめて立つことになった。1回戦はハンガリーMTK=ヴェレシュ・メテオルに勝利したものの (第1戦2-0、第2戦1-2) 、2回戦は同じくハンガリーのブダペスト・ホンヴェードに敗退した (第1戦2-0、第2戦0-4) [13]

2つ目のタイトルは1979-80シーズンのクパ・ロムニエイである。決勝戦でステアウア・ブカレストに延長戦での逆転ゴールが決まり2-1で勝利した。翌1980-81シーズンにはUEFAカップウィナーズカップに出場、1回戦はスコットランドセルティックFCに勝利したものの (第1戦1-0、第2戦0-2) 、2回戦はイングランドウェストハム・ユナイテッドFCに敗退した (第1戦1-0、第2戦0-4)[14]クパ・ロムニエイではウニヴェルシタテア・クラヨーヴァに0-6で敗れ準優勝に終わった。翌1981-82シーズンのUEFAカップウィナーズカップは予備予選から出場したが、東ドイツロコモティーヴェ・ライプツィヒに敗退した (第1戦2-0、第2戦0-5)[14]

ポリテフニカ・ティミショアラは、ディヴィジアAに1983年までの10年間在籍した[15]。その後、ディヴィジアAとディヴィジアBを行き来するエレベータークラブに成り下がり、具体的には1984年[16]、 1987年[17]、 1989年[18]の3度の昇格、1986年[19]と1988年[20]の2度の降格を経験した。

1989年のルーマニア革命の後UEFAカップ1990-91に出場、1回戦はスペインアトレティコ・マドリードに勝利したものの (第1戦2-0、第2戦0-1) 、2回戦はポルトガルスポルティングCPに敗退した (第1戦2-0、第2戦0-7)[21]UEFAカップ1992-93において、1回戦のレアル・マドリードと対戦。地元ティミショアラで行われた第1戦では1-1の引き分けに持ち込み健闘したものの、第2戦では0-4の惨敗を喫した[21]

1993-94シーズンは18チーム中17位に終わりディヴィジアBに降格するものの[22]、僅か1年でディヴィジアAに復帰する[23]。しかし、1996-97シーズンは18チーム中17位に終わりディヴィジアBに降格[24]。その後ディヴィジアAに戻ることはなく2001シーズンにはディヴィジアBセリアIIで16チーム中最下位に終わったため、ディヴィジアCに降格した[25]

カムバックと記録の争い (2002年 - 2011年)

2002年、AEKブカレストは初のリーガ1昇格を果たした[26]。AEKのオーナーアントン・ドボシュ (Anton Doboş) は本拠地をティミショアラに移転、クラブ名をポリテフニカ・AEK・ティミショアラ (Politehnica AEK Timişoara) に改称、地元当局やポリテフニカファンの支持を受けて2002-03シーズンに臨んだが、16チーム中14位に終わり降格すると思われた[27]、しかし2003年にアストラ・プロイェシュティペトロルル・プロイェシュティに吸収される形で合併、グロリア・ブザウとのプレーオフの末にリーガ1に残留した。2003-04シーズンはチームとしてより成熟し、前シーズンの反省から学んだ結果、2シーズン目で8位という立派な成績を残した。

2004-05シーズンからは、FCUポリテフニカ・ティミショアラ (FCU Politehnica Timișoara) に改称した[28]。前半戦は苦しみ、ウィンターブレーク前には降格もちらついたが、新スポンサーである石油精製会社のBKPの登場がチームを救った。ルーマニア代表コスミン・コントラアトレティコ・マドリードからレンタルで獲得したり、ヴィオレル・モルドヴァンセルヴェットFCから獲得した結果、6位まで順位が上昇した。

2005年のプレシーズンにはイタリアの強豪ユヴェントスと親善試合を行い、2-2の引き分けに持ち込んだ。2005-06シーズンは8位だった。2006-07シーズンは無難な滑り出しを見せ、シーズンのほとんどの期間を5位以内で過ごした。しかしフロントはこの結果に不満で、4人以上の監督がこのシーズンに指揮を執った。開幕時の監督はソリン・クルツだった。彼は1990-91シーズンにウニヴェルシタテア・クラヨーヴァでリーガ1を制したが、それはブカレスト勢(ステアウア・ブカレストディナモ・ブカレストラピド・ブカレスト)以外が優勝した最後のシーズンだった。ステアウアからやってきたステファン・グリゴリエ、ディナモからやってきたダン・アレクサと選手補強にも成功したが、監督はめまぐるしく交代した。

2007-08シーズンは好調で、2007年末には3位につけていた。勝ち点32を獲得し、1試合平均の得点は2点を超えていた。しかし、守備陣は安定せず、前年度を下回りチーム最大の欠点のように思えた。冬の移籍期間にバラージュ・ボルベリとミロシュ・ブレジンスキーのふたりのスロバキア代表の守備的な選手を獲得したが、6位に終わった。クパ・ロムニエイ決勝ではCFRクルジュに敗れたが、準優勝したことでUEFAカップの出場権を獲得した。57得点はクラブ創設から6シーズンで最多だった。さらにいえば、ブカレストの3強にシーズンを通して負けがなかったチームは過去30年間で初めてだった。

2008年からは、スポーツ仲裁裁判所の仲裁判断に従いFCティミショアラ (Fotbal Club Timişoara) に改称した。 また2002年以前のチームカラーと記録については、ポリテフニカ・ティミショアラのオーナーであったクラウディオ・ザンボン (Claudio Zambon) を支持したため、FCUはチームカラーと記録を失うことになった [29]

2008-09シーズンはUEFAカップにはじめて出場したが、1回戦でパルチザンに敗れた。しかしリーグ戦ではウニレア・ウルジチェニと最後まで優勝を争い、クラブ最高位の2位になった。2009-10シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選3回戦では前年度UEFAカップ覇者のシャフタール・ドネツクと対戦した。この格上との試合をアウェーゴール差で逃げ切り、シュトゥットガルトとの本戦プレーオフに進出した。守護神コステル・パンティリモンの好守などで健闘したが、2試合合計0-2で敗れ去った。リーグ戦では5位と不本意な結果だった。

2010-11シーズン、監督交代がありながらもヤニス・ズィクの活躍でリーグ戦2位となる。シーズン終了後に財政難が発覚し、リーガ2 (2部リーグ) 降格処分となり、UEFAチャンピオンズリーグ出場権は3位のFCヴァスルイへ移った。

サポーターとライバル関係

ダン・パルティヌシャヌに陣取るポリテフニカサポーター
(2011年4月2日)

ポリテフニカのウルトラス活動の原点は、1995年頃にウルヴァン・ゲリラ (Urban Guerilla) 、グルッポ・アウトノモ・ヴィオラ (Gruppo Autonomo Viola) が出現したことが確認されている。永遠のライバルといえばUTAアラドである。双方の対戦はデルビ=ウル・ヴェストゥルイ (Derby-ul Vestului、直訳:西部ダービー) と呼ばれ、第二次世界大戦敗戦以降のルーマニアサッカー界において数々の名勝負を繰り広げたといえよう。

ほかのライバルとしてはディナモ・ブカレストステアウア・ブカレスト、少数ではあるがウニヴェルシタテア・クラヨーヴァも挙げるものもいる。

しかしながらラピド・ブカレストやドイツのボルシアMGとのサポーター間の交流があるという。 


  1. ^ a b History”. fcupoli.com. 2008年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。 Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
  2. ^ a b Poli Timișoara, centenar tumultuos "Înainte de '89, trebuia să fii ori cu Dinamo, ori cu Steaua. Poli a refuzat prostituția sportivă"” [Poli Timișoara, tumultuous centenary "Before '89, you had to be with either Dinamo or Steaua. Poli refused sports prostitution"] (ルーマニア語). Gsp.ro (2021年12月4日). 2021年12月10日閲覧。
  3. ^ Season 1947-48”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  4. ^ Season 1948-49”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  5. ^ Season 1950”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  6. ^ Season 1951”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  7. ^ Season 1952”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  8. ^ Season 1958-59”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  9. ^ Season 1959-60”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  10. ^ Season 1963-64”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  11. ^ Season 1964-65”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  12. ^ Season 1966-67”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月7日閲覧。
  13. ^ ISTORIA ECHIPELOR ROMANESTI IN CUPELE EUROPENE/REZULTATE ALL TIME/1970-1980”. StatisticiFotbal.ro. 2011年8月7日閲覧。
  14. ^ a b ISTORIA ECHIPELOR ROMANESTI IN CUPELE EUROPENE/REZULTATE ALL TIME/1980-1990”. StatisticiFotbal.ro. 2011年8月7日閲覧。
  15. ^ Season 1982-83”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  16. ^ Season 1983-84”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  17. ^ Season 1986-87”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  18. ^ Season 1988-89”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  19. ^ Season 1985-86”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  20. ^ Season 1987-88”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  21. ^ a b ISTORIA ECHIPELOR ROMANESTI IN CUPELE EUROPENE/REZULTATE ALL TIME/1990-2000”. StatisticiFotbal.ro. 2011年8月8日閲覧。
  22. ^ Season 1993-94”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  23. ^ Season 1994-95”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  24. ^ Season 1996-97”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  25. ^ Season 2001-02”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  26. ^ Season 2001-02”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  27. ^ Season 2002-03”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  28. ^ Season 2004-05”. RomanianSoccer.ro. 2011年8月8日閲覧。
  29. ^ Arbitration CAS 2006/A/1109 SC FC Politehnica Timişoara SA v. CS FCU Politehnica Timişoara, award of 5 December 2006”. Court of Arbitration for Sport. 2011年8月8日閲覧。
  30. ^ Poli şi-a retras dosarul de licenţiere! ”U” Craiova - exclusă din fotbal, Sandu propune o nouă echipă! Iancu, persona non-grata” (ルーマニア語). Liga 2 (2012年5月14日). 2012年6月1日閲覧。


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