1795年8月22日の海戦 戦闘

1795年8月22日の海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 14:51 UTC 版)

戦闘

「スタッグ」の艦長ジョセフ・シドニー・ヨーク

イギリス艦隊よりも艦の数が少ないため、バタヴィア戦隊は、デンマーク領ノルウェーの中立港エイゲローヤ(イギリスの資料ではエゲロエEgeroeまたはエゲーロEgerö)へ避難するべく、ノルウェー岸に沿って帆をさらに広げた[6]。バタヴィア戦隊が北へ向かうのが見えたアルムズは、戦隊にバタヴィア戦隊を追跡するように命じ、間もなく一番速度のまさる「スタッグ」が、順風を利用して他の艦の先頭に立ち、16時15分に、バタヴィア戦隊の最後尾にいた「アリアンテ」を、僚艦から切り離すことに成功した。36門艦の「アリアンテ」は32門の「スタッグ」よりも強かったが、「アリアンテ」の主な大砲は、「スタッグ」の18ポンド砲に対して12ポンド砲であった。この状況に、近くまで来ている他のイギリス艦が加わるということは、海軍史家のウィリアム・ジェームズ英語版によれば、「アリアンテ」には「最初から勝てるチャンスはなかった」"[7]

自らの勝ち目のなさにもかかわらず、バタヴィアの指揮官はスタッグと交戦し、艦長のヨークは「アリアンテ」に自艦を横付けし、「スタッグ」は片舷斉射を「アリアンテ」に浴びせた。その1時間後、勝つ見込みのない状況下で、しかも数的に劣勢で、艦にかなりの損害を受けたバタヴィアの指揮官は、17時15分に降伏した[4]。「スタッグ」と「アリアンテ」が差しで勝負する一方で、その他の場所でも戦いが続いていて、オランダの戦隊がノルウェー沿岸を東に前進し、イギリス戦隊がエイゲローヤと、デンマークの影響下にあるため、バタヴィア戦隊が避難できるノルウェー岸との間の海峡から、バタヴィア戦隊を引き離そうとしていた[4]。「フルクヘイト」はすばやく敵から逃げ去ったが、「アルホ」はそれよりも遅く、「リユニオン」と「アイシス」の、距離はあるが激しい砲撃を受け、同じように砲撃を返した。「アルホ」はその後24ポンド砲の砲撃を30も受けており、帆と艤装がぼろぼろになっていて、大がかりな修理が必要だった。結局バタヴィアの逃げへのこだわりが功を奏し、「フルクヘイト」と「アルホ」は、アルムズの阻止が届かないうちにエイゲローヤの中立港に逃げ込んだ[7]


  1. ^ Chandler, p. 44
  2. ^ Woodman, p. 53
  3. ^ Gardiner, p. 170
  4. ^ a b c d Gardiner, p. 183
  5. ^ a b "No. 13809". The London Gazette (英語). 29 August 1795. p. 896. 2012年4月7日閲覧
  6. ^ a b Clowes, p. 493
  7. ^ a b c James, p. 292
  8. ^ James, p. 293
  9. ^ Brenton, p. 93
  10. ^ "No. 14050". The London Gazette (英語). 30 September 1797. p. 950. 2012年4月7日閲覧
  11. ^ Gardiner, p. 176





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