1795年8月22日の海戦
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アリアンテの拿捕とオランダ戦隊の逃走
アルムズは拿捕した「アリアンテ」を、「スタッグ」の海尉パトリック・トニンを指揮官にしてイギリスへ運ばせ、海軍本部に「リユニオン」の海尉ウィリアム・ハゲルを特使として送った[8]。アルムズ自身は戦隊と共に海にとどまって、巡回の任務を終えた。イギリスの損害は「スタッグ」での4人の戦死と13人の負傷を始め、「リユニオン」で1人が戦死、3人が負傷、そして「アイシス」では2人が負傷した。「ヴェスタル」のみが損害も損傷も受けなかった[5]。戦闘中のバタヴィア戦隊の損害については、アルムズによる「アリアンテ」の記録がないためわかっていない。海軍本部の報告書における「アリアンテ」の記載漏れについては、ジェームズがアルムズを怠惰であると批判している[7]。また、追跡を受けていた「アルホ」に戦死者が2人、そして負傷者が15人いたことはわかっている[6]。逃げおおせたバタヴィア艦はエイゲローヤの水路に投錨し、1796年の春までそこにいて、その後首尾よくバタヴィアに戻ることができた[9]。
「アリアンテ」はその後スピットヘッドに送られてイギリス海軍に買い取られ、「アライアンス」となった。この賞金はイギリス海軍の乗員のものとなり、彼らの間で等分されたが、「アイシス」の水兵のみが240ポンド(2013年現在の1万8979ポンドと同価値)を手にした[10]。それから後もダンカンの艦隊は、北海の輸送経路を、オランダ襲撃隊の略奪行為から非常にうまく守り抜き、1797年、キャンパーダウンの海戦でバタヴィア艦隊に壊滅的な敗北を負わせることになった[11]。
- ^ Chandler, p. 44
- ^ Woodman, p. 53
- ^ Gardiner, p. 170
- ^ a b c d Gardiner, p. 183
- ^ a b "No. 13809". The London Gazette (英語). 29 August 1795. p. 896. 2012年4月7日閲覧。
- ^ a b Clowes, p. 493
- ^ a b c James, p. 292
- ^ James, p. 293
- ^ Brenton, p. 93
- ^ "No. 14050". The London Gazette (英語). 30 September 1797. p. 950. 2012年4月7日閲覧。
- ^ Gardiner, p. 176
- 1 1795年8月22日の海戦とは
- 2 1795年8月22日の海戦の概要
- 3 歴史的背景
- 4 戦闘
- 5 アリアンテの拿捕とオランダ戦隊の逃走
- 6 参考文献
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