遼陽会戦 影響

遼陽会戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/07 13:27 UTC 版)

影響

日本軍は、ハルビン攻略が望めなくなったことから、基本戦略の変更を余儀なくされた。遼陽会戦は日本軍の遼陽入城に終わったが、クロパトキンは戦略的後退であると主張し、両軍が勝利宣言を行う。死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上にのぼった。

日本軍では、8月31日に遼陽会戦の首山堡争奪において、歩兵第34連隊の関谷銘次郎連隊長、橘周太第1大隊長(少佐)が戦死した。橘少佐は、海軍における旅順口閉塞作戦において戦死した広瀬武夫少佐とならび、戦後に軍神とされた。

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参考文献

  • 『機密日露戦史』:参謀本部編
  • 『明治三七八年日露戦史』:参謀本部編
  • 『クロパトキン回想録』
  • 『遼陽會戰(リョウヨウ カイセン) 沙河會戰(シャカ カイセン) 黒溝臺會戰(コクコウダイ カイセン)』陸軍省, 1929
  • 『歴史群像 No.68 遼陽会戦』、学研、2004年12月
  • 『米国特派員が撮った日露戦争』、コリアーズ編、小谷まさ代訳、 草思社, 2005
  • 『ある歩兵の日露戦争従軍日記』、茂沢祐、草思社, 2005、
  • 『図説従軍画家が描いた日露戦争』、平塚柾緒、 太平洋戦争研究会編 、河出書房新社(ふくろうの本), 2005
  • 『日露戦争アーカイブズ : シリーズ「雲」』DVD、澪標の会企画、 文生書院, 2005

関連項目

  • 松方別邸 - 遼陽陥落の報を受けた人々が万歳をしたことから「万歳閣」の異名を持つ。

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 沼田 Numata, 多稼蔵 Takezō「第6章 遼陽附近の會戰及び旅順要塞第一囘攻擊」『日露陸戦新史』(第4刷)岩波書店、東京、1940年11月23日、94-100頁。ISBN 978-4-00-400078-5https://www.worldcat.org/oclc/672640801 


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