葛西神社 祭囃子

葛西神社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/13 06:27 UTC 版)

祭囃子

葛西神社は祭囃子発祥の地と言われている。祭囃子すなわち葛西囃子は城東地域(東京東部)に古くから伝わる郷土芸能の一つ。起源について明確に記載された文献は残されていないが通説としては享保年間、葛西神社の神官、能勢環(のせたまき)が敬神の和歌に合わせ、音律を工夫して和歌囃子として村の若者に教え、御神霊をお慰めしたのがその起源とされている。宝暦3年(1753年)頃より関東代官伊奈半左衛門(増補 葛飾史では伊奈半十郎)忠順が天下泰平・五穀豊穣を祈願すると共に一家和合並びに青少年の善導を目的としてこれを奨励した。結果、毎年各地で葛西囃子代表者の選出会が催される事となり、選出された者を代官自ら神田明神の将軍家御上覧祭りに推薦した事により大流行した。

なお、葛西周辺各地より名人が神田祭で囃子の奉仕をする形式を取っていたがやがてそれらの技能を身に付けた神田の氏子達の手でお囃子が行われる様になる。以来、お囃子は盛んの一途を辿り、神田囃子、深川囃子、また関東周辺にも広まり、秩父川越石岡、また東北地方東海地方の囃子の流儀を生んでいる。但し、葛西囃子は嘉永年間浦賀に黒船が渡来した事件と相まって一時衰退を見せる。安西四年(1857年)六月の神田祭より、月番寺社奉行松平豊前守のきも入りで復活の兆しを見せたものの、幕末から明治維新へと変遷を遂げる社会的動乱の中で再び衰微した。祭礼囃子に対して時代の変化による世人の嗜好が変化した事もその要因と考えられる。

しかし、以降の社会情勢の安定化に伴い葛西囃子も復活を見せる所となり明治17年(1884年)の神田明神の大祭において葛西神社名人代表が参加して好評を博した。また、この頃に小松村の神官秋元式弥が主体となって葛西囃子の普及に努めた事も復興に大きな役割を果たした。第二次世界大戦後、いち早く有志によって、昭和26年(1951年)に葛西囃子保存会(葛西神社事務局)が結成され、昭和28年(1953年)に東京都より無形文化財の指定を受け今日に及んでいる。現在、葛西神社の例大祭、11月の酉の市の祭事に奉納演奏を、また毎月中旬の日曜日にも境内で稽古が行われている。

余談だが「葛西囃子」の名称自体は戦後に付けられたものである。これは大東亜戦争の後、地元有志の手により保存会が結成されてからの呼称でありそれ以前は単に「おはやし」と称されていた。




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