羅皇太后 羅皇太后の概要

羅皇太后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/08 17:36 UTC 版)

生涯

巴氐族の李特に嫁ぎ、李蕩と李雄を生んだ。

元康6年(296年)、斉万年の乱や連年に渡る飢饉により関西が荒廃すると、李特は数万家の流民を従えて益州へ移り、羅夫人もまた夫に付き従った。

永寧元年(301年)、李特は益州刺史羅尚と対立し、遂に反乱を起こした。李特が羅尚に敗れて戦死すると、その弟の李流が後を継いだ。

建初元年(303年)3月、羅尚は牙門左氾・黄訇・何沖を派遣して三道から李流の北営を攻撃した。李流らは涪陵の薬紳討伐に赴いていたので不在であり、何沖が北営を攻撃すると営内にいた氐族の苻成と隗伯が呼応した。北営にいた羅夫人はこれを知ると、自ら甲冑をまとって戦いに臨んだ。途中、隗伯に襲われて目を斬りつけられたが、羅夫人はひるまず戦い、李流らが戻ってくるまで持ちこたえた。

建興元年(304年)、後を継いだ李雄が成都王に即位すると、羅夫人は王太后に立てられた。

晏平元年(306年)6月、李雄が帝位に即くと、皇太后に立てられた。その後、時期は不明だが数年の内に死去した。

李雄は母の死を悲しみ、巫覡の言葉を信じ込んで多くの禁令を設けるようになり、さらに母の遺体を埋葬する事を拒んだ。司空趙粛がこれを諌めると李雄は従ったが、その後さらに母の為に三年のに服そうと思うようになり、群臣は強く反対したが従わなかった。叔父の李驤や任回が冠を脱ぎ涙を流して説得にすると、李雄はようやく喪服を解き、再び親政を始めたという。

兄の娘である羅夫人は2代皇帝李班を生んだが、李班の死後に羅演ともども殺害された。

伝記資料




「羅皇太后」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「羅皇太后」の関連用語

1
8% |||||

羅皇太后のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



羅皇太后のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの羅皇太后 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS