田園の憂鬱 田園の憂鬱の概要

田園の憂鬱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/19 08:58 UTC 版)

大正期の佐藤春夫

概要

当初は『病める薔薇』の題名で雑誌「黒潮」に掲載された。1916年5月のことである。『田園の憂鬱』の約4分の1に相当する部分まで書き進め、『続病める薔薇』として原稿用紙50枚を書き上げたが、編集者から拒否されたため、自ら遺棄する。その後、1918年2月に『田園の憂鬱』として全編を書きあげ、同年9月に雑誌「中外」に掲載された。しかし、佐藤自身が作品に不満を持っていたため推敲を重ね、1919年3月に定稿とする[1]

内容は、自らの田園生活の中で、佐藤自身の心境が重ねられ赤裸々に吐露されており、憂鬱と倦怠に象徴されるような病的な当時の心境が描かれている。文体は写実的で、自身が持っている深い感情に裏打ちされ、同時に修飾され抒情的文体に昇華されている。この抒情的情景には、日本人が共通して持っている古き良き時代へのノスタルジアや感情をも秘めているため、多くの共感を得ることができる、と指摘する者もある。当時佐藤は神経衰弱を患っており、都会から離れ田舎暮らしを行うことで都会で受けた神経の摩耗を取り戻そうとしたが、この作品を描くことでさらに自己蘇生を期待していたとも取れる[1]

作品の舞台

神奈川県都筑郡中里村鉄は、現在の横浜市青葉区鉄町にあたり、武蔵国相模国の国境に近い丘陵地で、武蔵野台地の南端にあり、鶴見川が流れている。気候は温暖で、緩やかな丘陵が続き、ブナ科コナラが多く武蔵野らしい雰囲気をよく残している。地下水にも恵まれ小川や湧水池もあった。また水田や炭焼きも行われており、素朴な田園地帯でもあった。1916年(大正5年4月)、佐藤は内縁の妻と2匹の犬や1匹のネコとともにこの地へ移住し、1920年(大正9年)までを過ごした。現在、付近に文学碑「田園の憂鬱由縁の地」が建立されている[1]




「田園の憂鬱」の続きの解説一覧




田園の憂鬱と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「田園の憂鬱」の関連用語

1
手任せ デジタル大辞泉
100% |||||

2
都会の憂鬱 デジタル大辞泉
100% |||||

3
癇立つ デジタル大辞泉
96% |||||


5
デジタル大辞泉
74% |||||

6
沈静 デジタル大辞泉
74% |||||

7
煤びる デジタル大辞泉
74% |||||

8
担げる デジタル大辞泉
58% |||||

9
棒組 デジタル大辞泉
58% |||||

10
蠕動 デジタル大辞泉
58% |||||

田園の憂鬱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



田園の憂鬱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの田園の憂鬱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS