王政ローマ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 23:54 UTC 版)
王政の終焉
タルクィニウスの追放によって王政ローマは終わった。王政への反省からこの年、紀元前509年からは共和政がとられ、2名の執政官がローマの政治を司ることになった。最初の執政官には、演説を行ったブルトゥスと、自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出された。この後は共和政ローマの歴史となる。
これ以降ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれており、特に東方の専制君主に対して強い拒絶反応を示すようになった。
制度
初代ロームルス以来、多くの一族を抱える有力者は貴族(パトリキ)として終身の元老院を構成し、王の助言機関とした。
ローマに見られる特徴として、他国から一族郎党を引き連れて移民してきた者や、戦争で破った敵国の有力者も一族ごとローマに強制移住させ、代表者を元老院議員にすることで味方に取り込み勢力基盤としたことが挙げられる。これは、エトルリア人都市国家やアルバ・ロンガなどのラテン族都市国家に囲まれた小さな寒村ほどの規模から出発した新生ローマでは、最大・喫緊の課題は人口増加であり、人口が増えないことには、自衛のための兵力すら維持できないからであった。実際、このローマの性格こそ、後にローマを強大にする原動力であったと認められている。
さらに、奴隷や一時居住者以外のこれら自由市民は、ローマ市民として王の選出を含む国家の最高議決機関である民会で投票する権利を与えられた。ローマ建国の王であったロームルスも、治世の途中でこの民会の選挙で選出(この場合信任)され、改めて選挙で選ばれて王となった。王の任期は終身であるが、原則として世襲制はとらない。もっとも、この市民による王の選出は、共和政期に共和政の歴史を古くに求めるために作られた伝説とする説もある。
王の最大の責務はローマの防衛であり、そのため自由市民が輪番で兵役を勤めるローマ軍全軍の指揮を担当した(全軍とはいっても草創当時は2,000名程度であったと推測される)。
ローマの王と在位
- ロームルス 紀元前753年 - 紀元前715年
- ティトゥス・タティウス(ロームルスと共同統治)
- ヌマ・ポンピリウス 紀元前715年 - 紀元前673年
- トゥッルス・ホスティリウス 紀元前673年 - 紀元前641年
- アンクス・マルキウス 紀元前641年 - 紀元前616年
- タルクィニウス・プリスクス 紀元前615年 - 紀元前579年
- セルウィウス・トゥッリウス 紀元前579年 - 紀元前534年
- タルクィニウス・スペルブス 紀元前534年 - 紀元前509年
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