梁実秋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/01 05:31 UTC 版)
結婚生活
1927年2月11日に程季淑と結婚した。3人の娘と1人の息子に恵まれた。1970年に夫婦は移住したが、不幸なことに移住先で程季淑は他界した。梁実秋はこの悲しみにより『槐園夢憶』を著した。
- 長女 梁文茜
- 次女 (夭折)
- 長男 梁文騏(2007年7月に病死)
- 三女 梁文薔
1974年に程季淑を亡くしたが、翌年には韓菁清と再婚した。
程季淑とは、アメリカ留学の前から付き合っており、帰国後に梁実秋を心から喜ばせたことは彼女が元気なことであった。結婚式は、北京の南岸沿いにある欧米同学会で行われた。式は中国と西洋の折衷であった。花嫁側については、一切旧来の仕切りに従い、梁家では事前に伝統の習慣によって一般的に言う結納を贈った。しかし、花嫁が到着すると、式は次第に洋式に変わっていった。婚礼は順調に進んだが、夕刻になり梁実秋が婚約指輪をいつの間にかなくしていることに気づき、程季淑に話すと「構いませんわ。私達にそんなもの要りませんもの」と優しく慰めたという逸話も残されている程である。また、2人の関係を物語る話としてこんなものがある。友人の羅隆基・丁西林等に芸者を呼んだ宴に誘われたことがあった。梁実秋は、これを聞いて難しいと思ったが、意外にも程季淑は笑いながら、すぐにOKをした。これは、見聞が広がるからという理由だった。しかし、梁実秋は早々に宴から帰って来て、女遊びは苦痛で女性を侮辱し、人間性を侮辱し、自分を侮辱する行為だと語っている。程季淑は、このようになると予想して、梁実秋を宴に行かせたのである[1]。
作品と評価
五四時期に文学活動を始めた彼は、初期には詩を書いていた。1927年にアメリカ留学から帰国すると、散文にも着手し、散文の書き手として高い評価を得ている。また、新月社内で、トップの文芸批評家として活躍していたため、数多くの評論集も残されている。シェークスピア翻訳でも有名であるが、梁実秋の作品は日本語訳されたものはなく作品を読む場合は中国語の資料のみとなっている[11]。
- 散文集
- 雅舎小品
- 罵人的芸術
- 談聞一多
- 清華八年
- 実秋雑文
- 評論集
- 浪漫的古典的
- 偏見集
- 英国文学史
- 文学是有階級性嗎?
- 論魯迅先生的硬訳
- 敬告読者
脚注
- ^ a b c d e f g 宋益喬 著、内海清次郎 訳『青年 梁実秋伝 : ある新月派評論家の半生』(初版第一刷)埼玉新聞社、1998年1月。ISBN 4-87889-185-8。
- ^ a b 小島久代「梁実秋と人文主義」『お茶の水女子大学中国文学会報』第1巻、お茶の水女子大学中国文学会、1982年4月、84-90頁、hdl:10083/954、ISSN 0286-6889、NAID 110005858932。
- ^ a b 稲本朗「「抗戦無関論」における梁実秋」『人文学報』第253巻、東京都立大学人文学部、1994年3月、153-168頁、ISSN 0386-8729、NAID 40001951471。
- ^ a b 小山三郎『台湾現代文学の考察 : 現代作家と政治』知泉書館、2008年7月、30-67頁。ISBN 978-4-86285-037-9。
- ^ 小山三郎「抗日統一戦線期の梁実秋批判について」『法学研究』第75巻第1号、慶應義塾大学法学研究会、2002年、343-372頁、ISSN 0389-0538、NAID 110000334087。
- ^ 梁実秋(コトバンク)
- ^ 遠東英漢大辭典 (中国語)
- ^ 遠東英漢・漢英雙向辭典 (中国語)
- ^ 梁実秋故居(台北旅遊網) (中国語)
- ^ 梁実秋故居(青島故居) (中国語)
- ^ 中国一九三〇年代文学研究会『中国現代散文傑作選1920→1940 : 戦争・革命の時代と民衆の姿』勉誠出版、2016年2月。ISBN 978-4-585-29113-8。
- 梁実秋のページへのリンク