斎藤隆夫
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栄典
演説
「普通選挙賛成演説」、「粛軍演説」、「反軍演説」を斎藤の三大演説と扱われる。
普通選挙賛成演説
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大正14年3月2日に衆議院本会議で行われた演説は帝国議会速記録に公開されており、演説後の登壇者に「齋藤君は二時間以上も喋って」という発言が見られる[8]。
粛軍に関する質問演説
岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説
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国家総動員法案に関する質問演説
政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである.....[9]
など議会の審議、決議なしで国民を戦時体制のために統制する国家総動員法の危険性を指摘した。
演説後、同僚議員に「この案はあまりに政党をなめている」「僕は自由主義最後の防衛のために一戦するつもりだ」と語っている。しかし斎藤の反対もむなしく、懐疑的であった二大政党もついに賛成に回り国家総動員法は可決された。
支那事変処理中心とした質問演説
逸話
「ネズミの殿様」とのあだ名[10]で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は小柄でイェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる[11]。
反軍演説で除名処分を受けた後、「第七十五帝国議会去感」という一編の漢詩を残している。
吾言即是万人声 (吾が言 即ち是れ万人の声)
褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉は世評に委ねん)
請看百年青史上 (請う看よ 百年青史の上)
正邪曲直自分明 (正邪曲直 自ずから分明なるを)
注釈
出典
- ^ 『回顧七十年』「上京し、弁護士となる」より。
- ^ 『会員名簿 昭和2年11月』早稲田大学校友会、1927年、243頁。
- ^ アンドレ・ヴィオリス著『1932年の大日本帝国』、大橋尚泰訳、草思社、2020年、p.89-90
- ^ 正式名称『国防の本義と其強化の提唱』
- ^ 株式会社日本映画社・国立歴史民俗博物館・NHK戦争証言アーカイブス、1946、「近づく総選挙 どの政党を支持すべきか?」『日本ニュース 戦後編』第11号、1946年3月28日(2013年11月30日取得)。
- ^ 『朝日新聞』 1949年10月8日
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 内閣印刷局、1925、「衆議院議員選擧法改正法律案 第二讀會」『官報號外 大正十四年三月三日 衆議院議事速記錄第二十一號』四七八~四八五頁、帝国議会会議録検索システム(国立国会図書館)、(2013年11月30日取得、 https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detail?minId=005013242X02119250302 )。
- ^ 内閣印刷局、1938、「國家總動員法案 第一讀會」『官報號外 昭和十三年二月二十五日 第七十三囘帝國議會 衆議院議事速記錄第十七號』三四九頁2段目中央、(2013年12月1日取得、 https://teikokugikai-i.ndl.go.jp/#/detailPDF?minId=007313242X01719380224&page=1&spkNum=0¤t=-1 )。
- ^ 岡本一平の新聞漫画による。
- ^ 『回顧七十年』「アメリカに留学」を参照。グレース・ホスピタルでの治療が理由のようである。
固有名詞の分類
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