打毬 器具

打毬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/15 09:10 UTC 版)

器具

毬は、かつては毛を入れて作り、またはでつつみ、周囲約8形または楕円形であった。

毬杖は、篠竹を馬の背丈の長さに切り、大竹をわりまげて鉤形にしたものを先に結びつけ、細紐で網がはってあった。

備考

  • 山形市の豊烈神社の打毬(山形県無形民俗文化財)は、文政4年(1821年)に水野忠邦(当時は浜松藩主)が藩祖水野忠元を祀る神社を創建した際、神事として打毬を奉納したことに始まる[2]。忠邦の子・水野忠精が山形藩に移され、豊烈神社も山形に移転した[3]
  • 高知県では江戸時代に武家の娯楽として土佐の国技の1つと数えられていた。毎年の春に式典があり、柳原の堤上にあった南馬場では、武家の青年たちが紅白の組に分かれて打毬を行う「大分かれ」が開催されていた。毬の数は平均14個、毬杖は「箆(へら)」と呼ばれ、少年が競う「陸打毬」、成人男性が競う「馬打毬」に分かれていたが、明治維新後に導入された野球などの西洋スポーツの普及で戦前期に消滅した[4]
  • 第二次世界大戦中の1942年、スポーツ団体が政府外郭団体「大日本体育会」に組織替えされた際、日本ゴルフ協会は解散して「大日本体育会打球部会」となった[5]。戦時体制下で「一部の階層の遊び」と見なされたゴルフに対する風当たりは強く、ゴルフそのものの存続も危ぶまれる状況であったが、石井光次郎理事長がかつて見た文化映画の「奈良朝の打毬」を思い出し、「ゴルフは日本古来の遊戯を復活したもの」と強弁することで、大日本体育会の部会として存続することができ、スポーツとしての消滅を免れたというエピソードがある[5]

脚注

注釈

出典


  1. ^ 虎尾達哉『古代日本の官僚 天皇に仕えた怠惰な面々』(中公新書、2021年)p.79.
  2. ^ 豊烈神社について”. 豊烈神社. 2022年9月28日閲覧。
  3. ^ 山形豊烈打毬”. 地域文化遺産ポータル. 2023年2月21日閲覧。
  4. ^ 『武市佐市郎集第五巻 風俗事物編』、平成7年3月15日発行、武市佐市郎、高知市民図書館、P14~15 。
  5. ^ a b JGA年史 1940年~1949年”. 日本ゴルフ協会. 2023年2月21日閲覧。






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