左宝貴 左宝貴の概要

左宝貴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/19 01:37 UTC 版)

概要

山東省出身。日清戦争の際に李鴻章の命を受け、奉天軍(5,000名とも3,500名とも)を率いて平壌に進軍。1894年9月15日に日本陸軍と交戦中に戦死。ドゥガルド・クリスティーによると、左宝貴将軍は当時近代的組織となっていた日本軍との戦力格差を知った上で、「これは匪賊討伐とは異ひます。私は生きて環ることはありますまい。」[1]と述べ死を覚悟していたという。

戦闘の詳細な様子は、平壌の戦い (日清戦争)を参照のこと。

左宝貴の部下は、遺体を回収しようとしたが銃撃戦が起こり断念。遺体は行方不明となった。戦後、左宝貴が倒れた付近には、日本人の手により柵が組まれ碑が建てられた。碑文には、「奉天師団総司令官左宝貴ここに死す」「平壌にて日本軍と戦うも、戦死」と記された。

後に朝鮮半島を訪れたイザベラ・バードは、著作の中で、この碑文を「敵軍の名将に捧げた品位のある賛辞」と表している[2]

関連項目


  1. ^ 『奉天三十年』、ドゥガルド・クリスティー著、矢内原忠雄訳、1938年、p114
  2. ^ イザベラ・バード『朝鮮紀行』講談社学術文庫p406


「左宝貴」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「左宝貴」の関連用語

左宝貴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



左宝貴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの左宝貴 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS