小アグリッピナ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/17 00:51 UTC 版)
後世の評価
- アグリッピナの評価は、権勢欲が強く、周りに兄カリグラ、息子ネロと個性的な皇帝がいたこと、また夫殺しの疑惑もあり、あまりよい評価は与えられてはいない。ただこのことは無能な母親であったことを意味せず、幼い息子の教育役に文人セネカを登用したり、息子の軍事的基盤としてプラエトリアニに注目したことにも見られるように、政治的な人選に関しては卓越していた。また、当時のローマ時代の女性には珍しく回想録を書いたりしたなど、非常に教養ある人物であった。
- 後世の評価では最も不人気な人物であったと伝えられているが、後に五賢帝の一人トラヤヌスも賞賛するように、ネロの治世の始め5年間はQuinquennium Neronisと呼ばれるほど「稀に見る善政」であった。小アグリッピナの政治的手腕が、彼女の曾祖父の初代ローマ皇帝アウグストゥス死後以降、ローマ市民から待ち望まれていた気品に満ち溢れた時代であったことも考慮する必要がある[要校閲]
。
その他
- アグリッピーナコンプレックスの語源としても知られる。
- ドイツの都市ケルンはローマの植民市が起源であるが、その名は彼女の要望でクラウディウスがオッピドゥム・ウビオルム(Oppidum Ubiorum)からコローニア・アグリッピナ(Colonia Agrippina)と改名したことに由来する。
系図
カエサル1世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カエサル2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大マリウス | ユリア | 大カエサル | アウレリア | セクストゥス・ カエサル | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小マリウス | 小コルネリア | ユリウス・カエサル | 小ユリア | アティウス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大ポンペイウス | ユリア・ カエサリス | オクタウィウス | アティア | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
スクリボニア | アウグストゥス | リウィア・ ドルシッラ | クラウディウス・ ネロ | アントニウス | 小オクタウィア | 小マルケッルス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アグリッパ | 大ユリア | ティベリウス | 大ドルスス | 小アントニア | 大アントニア | L・ドミティウス・ アヘノバルブス | 小マルケッラ | メッサリヌス | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大アグリッピナ | ゲルマニクス | クラウディウス | G・ドミティウス・ アヘノバルブス | ドミティア ・レピダ | バルバトゥス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カエソニア | カリグラ | 小アグリッピナ | メッサリナ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ユリア・ ドルシッラ | ネロ | クラウディア・ オクタウィア | ブリタンニクス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
王室の称号 | ||
---|---|---|
先代 メッサリナ |
ローマ皇后 49年 – 54年 |
次代 クラウディア・オクタウィア |
- 1 小アグリッピナとは
- 2 小アグリッピナの概要
- 3 生涯
- 4 後世の評価
- 小アグリッピナのページへのリンク